人名録

リシュリュー周辺の人々

五十音順です

After Rubens - Anne of Austria, Queen of France - Louvre INV 1794アンヌ・ドートリシュ(1601-1666)スペイン王フェリペ3世と、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世の妹マルガレーテの間に生まれ、義母マリ・ド・メディシスとは従妹同士になります。当時のヨーロッパで最も美しい王妃と言われ、特に美しい手が賞賛されました。14歳でフランスへ嫁ぎ、何度かの流産を経て夫のルイ13世とは不仲になりました。母国スペインとの関係をリシュリューに疑われ、のちには実際に情報漏洩で糾弾されました。しかし息子が生まれ、リシュリューとルイ13世が相次いで亡くなると、一変します。リシュリューの指名した後継者マザランを重用し、フランスのために母国と対立しました。息子が親政を始めると、摂政の座を潔く退きました。社交的で明るく、誰からも好かれるような性格だったようです。

Gaston, Duke of Orléans, Château de Bloisオルレアン公ガストン (1608-1660)ルイ13世の弟。ルイ13世に王太子が生まれるまでの長い間、次期王位継承者の地位にありました。それにもかかわらず兄に反乱を起こしたり宰相リシュリューに対する陰謀を企てるなど度々問題行動を起こしました。最初の結婚ではこの縁組に反対する勢力と組み、リシュリュー暗殺計画を立ててシャレー伯は処刑されましたがガストンは逃亡しました。その後もリシュリューと対立した王太后に与するなど、反旗を翻しては逃亡し許されて帰国し…を何度か繰り返しました。リシュリュー亡き後はフロンドの乱に関してマザラン枢機卿に要注意人物と見なされ、領地ブロワへ居を移し、そこで亡くなりました。

 

Franque - Cardinal de La Valette - MV 7835ヴァレット枢機卿(1593-1639)ルイ・ド・ノガレ・ド・ラ・ヴァレット。エペルノン公の三男。パリのイエズス会の学院とソルボンヌ大学で学び、家が所有する修道院や大司教職を継ぐために聖職へ入りました。27歳で枢機卿になり、王室顧問などを経て、軍職にも就きました。リシュリューとは近しく、1630年の「欺かれた者たちの日」では、消沈するリシュリューを励まし、王と話をするためにヴェルサイユへ行くよう強く言ったと言われています。各地の知事と軍職を兼任し、1639年イタリア遠征中に亡くなりました。父親のエペルノン公はリシュリューと折り合いが悪く、息子のことを「Valette」と「valet(付き人)」にかけて「リシュリューの付き人枢機卿」と皮肉ったそうです。

Concino Conciniコンチーニ(1569-1617)フィレンツェ出身のイタリア人。妻のレオノーラ・ガリガイがマリ・ド・メディシスの侍女をしており、マリの結婚に伴ってフランスへやってきました。妻のレオノーラはマリのお気に入りで、そのため夫であるコンチーニも何かと恩恵を被り、アンクル侯爵の地位を手に入れ、後に元帥の位も手に入れました。コンチーニが国政を動かすようになると、コンデら大貴族が反乱を起こし、コンデは逮捕されましたが、しばらくして成長した国王が寵臣のリュイーヌと謀ってコンチーニを殺し、実権を握りました。妻のレオノーラも魔女として処刑されました。

Henri, Prince of Condéコンデ公アンリ2世(1588-1646)ブルボン家の傍系コンデ公の3代目。父アンリ1世を毒殺した容疑で母シャルロットがサン・ジャン・ダンジェリー監獄に収監されているときに生まれました。幼いころにカトリックへ改宗し、ナヴァール王アンリがアンリ4世として即位したのちはしばらく王位継承者でした。婚約者シャルロット・ド・モンモランシーがアンリ4世から好かれて追い回されていたため、二人でスペイン領ネーデルラントへ逃避行しましたが、アンリ4世が軍隊を差し向けたためスペインとフランスの領土問題に発展しました。アンリ4世の死去後マリ・ド・メディシス摂政に呼び戻されましたが、コンチーニに反発しユグノー寄りに活動して逮捕・投獄されました。ルイ13世の時代になると、国王に仕え、後にはボルドー地方の統治を任されました。

Marie chevreuseシュヴルーズ夫人 (1600-1679)マリ・ド・ローアン=モンバゾン。元リュイーヌ夫人。名門ローアン家のモンバゾン公エルキュール・ド・ローアンの子。16歳でリュイーヌと結婚、王妃アンヌの側近となり大きな影響を与えた。リュイーヌの死後も宮廷に留まり、王妃の三度目の流産の責任を問われて宮廷を追放されそうになると、すぐに名門のシュヴルーズ公と結婚し、またしても国王の不満を抑えて宮廷に留まった。その後はリシュリューに対する陰謀を次々と企み、1639年に国外退去となった。リシュリューとルイ13世の死後フランスに戻ったが、摂政となり国政に携わるようになったアンヌ・ドートリシュとの関係は戻らなかった。

Maximilien-de-Sullyシュリ(1560-1641)マクシミリアン・ド・ベチューヌ、シュリ公。アンリ4世の大臣。宗教戦争末期をナヴァールのアンリとともに戦い、アンリの即位とともに重臣となり、政治に関わりました。アンリには改宗をすすめましたが、自身はユグノーのままでした。シュリは宗教戦争後の疲弊したフランスに、農業・治水政策を施して財政を立て直しました。官職の世襲や売買を認めるポーレット法の導入者でもあります。アンリ4世の死後は支持を失い引退し、のちに回想録を記しました。ルーブル美術館の展示エリアの1つ、シュリー翼は彼の名前に由来します。

François Leclerc du Tremblay, le père Josephジョゼフ神父(1577-1638)本名フランソワ・ルクレール・デュ・トランブレ。名家の出身で、軍人教育を受けた後、アンリ4世時代のフランス・スペイン戦争に従軍しました。帰国後カプチン会の修道士となり、政治的にも積極的な活動をしていました。リュソン司教時代のリシュリューと知り合い、二人は意気投合し、ジョゼフ神父はカプチン会のネットワークを利用してリシュリューへの情報提供を行い、政策に関する相談役もこなしました。また彼は布教に熱心で、カナダや東洋に宣教師を派遣しました。リシュリューは彼のために枢機卿の帽子を何とか手に入れましたが、実際に授与される前に亡くなりました。

GeorgeVilliersバッキンガム公 (1592-1628)ジョージ・ヴィリアーズ。イギリス国王ジェームズ1世とチャールズ1世の寵臣としてイギリス宮廷で大きな影響力を持ちました。フランスに交渉のため訪れた際に、王妃アンヌ・ドートリシュと恋愛沙汰を起こし、以降入国を拒否されました。フランスのユグノー戦争に介入し、レ島にあるサンマルタン要塞のユグノーを支援しようとしましたが失敗、これによりイギリス国内ではバッキンガム公への反発が高まりました。ラ・ロシェル攻囲戦の最中、レ島に勤務していた自国の将校フェルトンによって暗殺されました。

ブ―ティエ、セバスチャン(1582-1625)リシュリュー家と親しかったブーティエ家の次男。リシュリューから1614年にリュソンの聖堂参事会長に任命され、マリ・ド・メディシス付き司祭などを経てアイール(Aire:スペインに近い南フランス)の司教になりました。彼はリシュリューの枢機卿昇任を働きかけるために、ルイ13世によって1620年の秋にローマへ派遣され、当地で熱心な活動を行いましたがすぐには叶わず、結局2年もローマに滞在することになりました。このローマ滞在時の1621年にアイール司教に任命され、彼が任地に到着できたのは1623年でした。任地の運営に熱心に取り組み、リシュリューやサン・シラン修道院長、ベリュールらも彼を助けましたが、司教に任命されて4年後、着任してわずか2年後に亡くなりました。

Nicolas Brulart de Silleryブリュラール・ド・シルリ、ニコラ(1544-1624)アンリ3世の時代に外交官となり、次のアンリ4世のときも外交問題に関わりました。跡継ぎのいない王妃マルグリットを離婚するためローマ教皇に結婚の無効を認めさせるなど奔走しました。新しい王妃マリ・ド・メディシスとは親しく、アンリ4世が暗殺された後は摂政に王妃マリを推しました。その後首席大臣として国政に携わりましたが複雑な外交問題に対処できず、マリも古老をかばいきれませんでした。1624年新年早々に首席大臣の地位を失い、同じ年の秋に隠居先で亡くなりました。

Cardinal-Pierre-de-Berulleベリュル枢機卿(1575-1629)ソルボンヌ大学出身のイエズス会士でアンリ4世の侍従を務めていました。イタリアでフィリッポ・ネリが創設したオラトリオ会をもとに、1611年にフランス・オラトリオ会を設立しました。摂政マリ・ド・メディチに気に入られ、また宗教上の理由からフランスは同じカトリックのスペインやオーストリアと同盟すべきだと主張し、リシュリューとは対立する立場にありました。17世紀の有名な神秘主義者であり、聖ヴァンサン・ド・ポールはベリュルの弟子で、聖フランシスコ・サレジオは友人でした。

Peter Paul Rubens 095bマリ・ド・メディシス(1575-1642)フィレンツェのメディチ家からアンリ4世に嫁いできました。国王の愛人の多さに悩まされましたが、3男3女をもうけました。夫の死後、息子ルイ13世の摂政となり、イタリア人の寵臣コンチーニを重用して実権を振るいました。地方の司教だったリシュリューに目をとめ自分の宮廷で起用したのが、リシュリューにとって政治的キャリアの始まりです。コンチーニの失脚後も度々息子に対し、反乱を起こしました。次第に頭角を現し、自分の意見と対立する立場のリシュリューに対し、何度も陰謀を仕掛けますが、国王との結びつきを強くしたリシュリューに負ける形でフランスを去り、各地を転々とした後、最終的にケルンで亡くなりました。

Charles de la Vieuvilleラ・ヴューヴィル、シャルル(1583-1653)フランス宮廷の役職、大鷹匠の地位に父親の跡を継いで就任しました(後にリュイーヌが同じ地位に就いています)。ブリュラール政権で財務大臣になりましたが、失策続きのブリュラールを追い落として首席大臣となり、リシュリューを入閣させました。しかしリシュリューにより失脚させられ、ブリュッセルへ亡命します。リシュリューが亡くなるとマザランによってフランスに呼び戻され名誉回復し、さらに財務担当職に復職しました。フロンドの乱の頃は、年金や賃金の支払いを一時停止し、資産家の協力者には税の先払いを呼びかけるなど財政をやりくりし、国家の負債を減らすことに尽くしました。

Frans Pourbus the Younger - Portrait of a man - Google Art Projectリュイーヌ (1578-1621)地方貴族出身で、宮廷の鳥係となり、鷹狩などの好きだったルイ13世に気に入られました。王太后の寵臣コンチーニの暗殺はリュイーヌの入れ知恵と考えられていますが、ルイ13世が実権を握ると、今度はリュイーヌ自身が寵臣として権力をふるい始めました。しかし何の政治的手腕もないリュイーヌに、王太后や大貴族たちは反乱を起こします。このいわゆる母子戦争での調停役を演じたのがリシュリューでした。リュイーヌはその後、軍を率いてユグノー討伐に出ますが、その間に熱病で亡くなりました。リュイーヌの妻はロアン公の娘、後にシュヴルーズ夫人とよばれるマリです。

Louis XIII (de Champaigne)ルイ13世 (1601-1643)フランス国王。アンリ4世とマリ・ド・メディシスの子。アンリ4世が暗殺されたため8歳で即位、母が摂政として実権を握りました。幼少期は厳しく躾けられ、女性に対する嫌悪感が強く、内向的な性格でした。当時、成年とされていた13歳を過ぎても実権を握り続けた母マリーに対し、その寵臣のコンチーニを殺すことでようやく自分が国王であることを知らしめたものの、それから後も母マリ-は政治に口を挟み続け、母との対立は一生続きました。スペインのアンヌ・ドートリシュと結婚しましたが、晩年まで跡継ぎに恵まれませんでした。リシュリューが亡くなって翌年に、幼い王太子を残して国王もまた亡くなりました。