リシュリューあれこれ

チューリップ

中央アジア原産のチューリップがオスマン帝国経由でヨーロッパに入ったのは16世紀と言われています。それから少しずつ広がって行って17世紀に入り、1630年代のオランダのチューリップ・バブルは知られていますが、それより若干早く1600年初頭にフランスでもチューリップ熱が起こりました。高価なチューリップは宝石の代わりとして身に着けられ、実際宝石と変わらないほどの値段で取引されていました。貴族や富裕層は自分の庭でチューリップを育て、新種には名前を付けました。リシュリューの庭にもチューリップがあったようですが、リシュリュー自身はチューリップが好きだったのかどうなのか。屋敷の庭の花リストの一番最後には、リシュリュー自身が名付けたチューリップが載っていました。チューリップ名「ジャン・シーム」(誰?)「ギャニュパン」(誰?)「大法官夫人」(セギエ夫人マドレーヌ?)。誰か身近な人の名前をつけたのかもしれません。
(参考:パヴォード,アンナ. チューリップ ヨーロッパを狂わせた花の歴史. 白幡節子訳. 大修館書店, 2001)

武闘派リシュリュー

最初は軍人になるべく教育を受けたリシュリュー。身体は弱かったものの、気質はおそらく軍人向きだったのでしょう。ラ・ロシェル攻囲戦で陣頭指揮をとり、北イタリアでも軍事行動に同行し、2度目の北イタリア侵攻では留守をする国王からほぼ全権を委任されて指揮をとりました。4人の小姓を従え、素晴らしい馬に乗り、鎧を身に着け、その下には金糸の刺繍が施された茶色い上着(つまり俗服ですね)を身に着け、羽飾りのついた帽子を被り、当時のまさに軍人のいで立ちをしていたわけです。
リヴォリに侵攻するとき、部隊を引き連れて先頭を切って川を渡りました。腰には剣をぶら下げ、鞍には拳銃を2丁吊り下げ、まさに騎士のいでたちです。川を渡りきると部隊の前で、ピルエットと呼ばれる半旋回や技術の必要なステップなど、華麗な馬術をドヤ顔で披露しました。軍人を完璧に演じられる自分に酔っていますね。ちなみに彼の名前アルマン(Armand)の意味は「軍人」です。枢機卿のローブを脱いで、軍人になりきっていたリシュリューを考えると、モットが描いたラ・ロシェル攻囲戦でのリシュリューの格好は、ちょっと違うように思いますね。

顔を盗まれたリシュリュー

1642年12月4日に死去したリシュリューの遺体は、防腐処理を施されてソルボンヌ大学の礼拝堂に埋葬されました。この礼拝堂はリシュリューの指示で建築家ジャック・ルメルシエが造ったものです。その後ジラルドン作の墓碑も作られ、リシュリューは静かに眠るはずでした。
が、亡くなっておよそ150年後の革命の際に、墓は荒らされるわ頭部は持ち去られるわの散々な目に。正確には持ち去られた頭部というのは防腐処理の際に取り外された頭部前面(顔)です。盗んだのは一説によると帽子職人の人物で、この男はしばらくしてからArmezという名の司祭で修道院長なる人物にこの遺物を渡しました。さらにArmez修道院長は、ブルターニュ地方の市長を務めている自分の弟に譲り渡しました。この弟の一家はミイラ状態のリシュリューの顔を自宅に保存しておき、時折、人に見せたり研究のために貸し出したりしていました。19世紀も半ばになって、Armez家でリシュリューの頭部を保存していると聞いた当時の皇帝ナポレオン3世は返還を促し、1866年にソルボンヌに再び埋葬されました。そのときに頭部がDehoussetによってスケッチされ、学会でその特徴が発表されました。「前頭部は細長い楕円形。輪郭に対し顔のパーツの比率は美人のタイプに近い。頭部はかなり上部で広がっている。」…等々。
ところが1895年、礼拝堂の修復が必要となり再び墓が開けられることに…。このときは写真が撮られ、のちに学会誌に写真が掲載されました。(こちらの論文で見ることができます。)
それから更に130年近く経ちました。ようやく落ち着いて、やれやれと眠っているでしょうか。それとも世の中が物騒過ぎて、おちおち眠ってもいられない気持ちでしょうか。
(参考:Head of Caardinal Richelieu, Los Angeles Herald, Volume 45, Number 37, 17 November 1895)

キャビネ・ノワール --- 検閲と情報操作

あちこちに潜ませたスパイの存在から、リシュリューが情報を重視していたのは間違いありません。ヨーロッパ各地にあるカプチン修道士のネットワークから得られた情報はジョゼフ神父を通じて入ってきました。王妃の側にも早くからスパイを送り込んでいたようですし(アミアン事件のときにはもういた?)、スパイとまでは言わなくても情報提供者はリュソンの司教だった頃からいました。
情報が紙と人手で運ばれた時代、確かに相手に正確な情報が届いたかどうかは、運び人が無事にたどり着くことが肝心ですが、駅逓制度が整えられて以降は、封印された手紙に開封の跡が見られないことが重要です。手紙の封には蝋をたらして印章を押す、いわゆる封蝋が用いられました。
さてリシュリューより遡ってアンリ4世は、宗教戦争後の内乱をおさめ、駅逓制度を再開させました。そして彼は手紙を大量に押収して情報を吸い上げ、郵便局を情報収集機関に仕立て上げたのです。これを当然リシュリューは利用しました。1633年の郵便局長からリシュリュー宛の手紙に、郵便局が通信文の傍受・開封・複写を行っていることが記されています。小包の中に巧みに隠された手紙を探しだし、時間をかけて読み出し、元に戻すのです。テクニックが必要ですが、そういったことをできる専門の人間がいました。
国王や閣僚、大使らの外交レベルの重要書簡は外交官や軍人などが運ぶのが通常ですが、彼らメッセンジャーも時に妨害され文書を奪われることもありました。ふつうは重要書簡には暗号が使われますが、それを解読する専門の人間も雇われました。リシュリューにはアントワーヌ・ロシニョールという解読の天才がいました。ネーデルラントでのスペインとの戦争で、エスダンの町はフランスに包囲され、住民たちはネーデルラント総督の枢機卿王子フェルナンドに暗号書簡で助けを求めましたが、ロシニョールはこの暗号を解読し、リシュリューはフェルナンドの名前で偽の手紙を作成して町に送りました。「助けに行くことは不可能」。こうして1639年にエスダンはフランスに降伏、フランス領となりました。
リシュリューの後継者マザランはさらにこの情報傍受の機関を発展させ、これが「キャビネ・ノワール(黒いオフィス)」と言われるようになり、のちのブルボン朝の王たちにも受け継がれて行ったのです。先のアントワーヌ・ロシニョールは息子ともども暗号学者としてルイ14世の時代に活躍しました。
(参考:Cabinet noir : les Français sous surveillance, https://www.lhistoire.fr/cabinet-noir-les-français-sous-surveillance)

サラバンド

「---枢機官さまがうるさくつきまとって、ますます意地悪をなさるそうで。サラバンド踊りの一件を根にもっていらっしゃるんでしょうな。---」A・デュマ/三銃士1巻8章より

デュマの三銃士は面白いですが、投入される歴史エピソードには間違いもあり、まあでもフィクションだから面白さ優先で仕方ないですね。王妃の前でサラバンドを踊ったのは史実のようですが、1635年という記述もあり、これが確かなら三銃士の時代より後のことです。そしてこのサラバンド、今では3拍子のゆったりした舞曲ということになっていて、優雅に踊ったのかと思いきや、当時のサラバンドはゆっくりから始まって次第にテンポが速くなる激しい踊りで品の良いダンスではなく、スペインでは卑猥だという理由で禁止されていたとか。これを王妃の前で踊ったと。緑色の衣装(スペインのチンピラ風)を身にまとって。貴族の基礎教養としてリシュリューはダンスは当然踊れたのでしょう。軍人学校出身ですしね。当時若者にダンスを教えるための教則本もありました。踊り方はもちろん、踊るときのたしなみやルールなどを教えてくれる「オルケゾグラフィ」という本はリシュリューも読んだのではないかと思います。しかしこれには勿論サラバンドは載っていません。一体いつどこで覚えたのでしょう。フランスには1620年に伝わり、この頃は速いテンポの曲だったようです。王妃を楽しませるために一肌脱いだのか、シュヴルーズ夫人に乗せられたのか。19世紀のF.M.Elliotの小説「Old Court life in France」ではシュヴルーズの口車に乗せられて踊ったリシュリューの失恋風味な情景が描かれています。しかし1635年であればスペインとの開戦があり、王妃の身辺は当然密に監視していたでしょうし、王妃に嫌われていることも知っていたでしょうし、互いになるべく穏便に過ごせるよう気を遣ったということでしょうか。当時のサラバンドの曲はわかりませんが、ポルトガル発祥のfoliaが当時のサラバンドの踊り狂う感じに近いようです。50歳にしてこのテンポで踊れるとはすばらしいです。
(参考:Wikipedia, Mémoires de Louis-Henri de Loménie, 大井駿の「楽語にまつわるエトセトラ」その56

テーブルナイフ

食事の際のカトラリー。リシュリューの時代はまだ一般的ではありませんでした。アンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスがフィレンツェからカトラリーやテーブルマナーを持ち込んだといわれていますが、その頃のフランス宮廷は手づかみでした。それから100年近く経てもフランスの宮廷はテーブルマナーにほど遠い状況だったのでしょう。先のとがった肉切ナイフをつまようじ代わりに使ったり、食事中に口論が過ぎてナイフをテーブルに突き立てたり振り回したりの無作法がまかり通っていました。そんな状況を嫌ったリシュリューが、テーブルナイフの先を丸くさせた、との説があります。
しかしながら先の丸いナイフはすでに15世紀にフランスで作られていたらしいのです。ブルゴーニュの城から見つかった15世紀のナイフは先が丸みを帯びていました。リシュリューがそれを知っていたかどうかはわかりませんが、いずれにせよ広く流通させたのはリシュリュー、そして次の時代のルイ14世でしょう。身だしなみに気を使い、何事も洗練を好むリシュリューらしいエピソードです。 ちなみにTVシリーズの「リシュリュー(1977)」では食事のシーンで肉を手づかみでとってちぎって(?)食べていました。
(参考:リシュリューは本当にテーブルナイフの発明者なのだろうか? https://comptoirducouteau.fr/richelieu-est-il-vraiment-inventeur-couteau-table/)

病気その1:激しい頭痛

気は強いが体は弱いリシュリュー。病気は気を弱くしますが、めげずに頑張ったリシュリューは素晴らしいと思います。さて、度々激しい頭痛に見舞われたリシュリューの、頭痛の原因を探った記事(The severe headaches of Cardinal Richelieu)を見つけました。(Francesco Scordo, Giulia Domenici, Michele Augusto Riva, The Lancet Neurology, Volume 17, Issue 6, June 2018, Page 505)
1508年から1530年までの頭痛の記録から、「無菌性髄膜炎の一種」で「慢性炎症性水腫」が原因の頭痛だと述べています。剖検でも「脳が大きく、硬く、灰色であり、頭蓋骨の厚さが減少している」ことが認められており、診断を裏付ける症状だそうです。リュソンは沼地で虫も多かったので、てっきりマラリアかと思いがちですが、違うようです。

病気その2:頭痛・発熱・不眠・憂鬱・痔など

(Richelieu from a medical point of view)より
頭痛・発熱などの症状に一生苦しめられたリシュリュー。結核にも罹っていたようです。しかしごく親しい人以外には、普段の辛さは見せなかったリシュリュー。若いころからの症状は、後年ひどくなり、歩くことも乗り物に乗ることもできなくなりました。晩年、右腕にできた腫瘍のため書くこともできなくなりました。「彼の様々な病気は、ほとんどの人に仕事を諦めさせ、病気に気を配りながら一生を過ごさせただろう。リシュリューは最後まで闘い続け、常に国家の問題に忙殺された。」頑張ったリシュリュー。 (The British Medical Journal, Vol.1, No.2684 (Jun. 8, 1912), pp.1325-1326)

病気その3:主従のてんかん疑惑

医学雑誌Epilepsy & Behaviorで、講演会や書籍でてんかんを患っていた著名人としてよく出てくる43人の名前を挙げて、その病歴をたどり、それがてんかんの症状か検討していました(John R. Hughes, Epilepsy & Behavior, 6, 2005, pp.115–139)。なんとルイ13世とリシュリュー主従の名前も記載されています。経歴の記述は怪しいところがありますが、病歴はルイ13世は「胃腸炎・結核」リシュリューは「淋病・潰瘍・痔・尿閉・リューマチ・歯痛・胸膜炎」とあります。二人とも精神的にはもろく神経質ですが、「てんかんの証拠はない」そうです。

猫好き?

猫を14匹も飼っていたリシュリュー。毒を警戒したり、ネズミ捕りのためとか、警備上のため?などと考えたりもしましたが、猫たちのために遺産も残し、それぞれに名前も付けていたので、猫好き認定します。14匹も飼えるなんて、広大な邸宅にお住まいでないとできませんね。