リシュリューが遺したもの

彼が後世に遺したものは何でしょうか

  • アカデミー・フランセーズ
  • 現在のフランス学士院は5つの組織から成り立っています。その筆頭ともいえるアカデミー・フランセーズは最も古く、1635年に設立されました。もともと知識人のグループが、そのうちの一人で著述家ヴァランタン・コンラールの家で定期的に開いていた会合がありました。このことを伝え聞いたリシュリューは、国家による国語の保護を目的として、この会合を利用しようと考えました。こうして1634年12月に「アカデミー・フランセーズ」は誕生し、リシュリューが後見人、ヴァランタン・コンラールが最初の常任書記となりました。翌年1635年にはルイ13世の特許状によって正式に国家機関となり、1637年パリ議会に承認されました。

    当時のフランス語はまだ文法・発音に流動的な部分があり、さらに地方ごとの方言も存在していました。文法学者や著述家たちは共通の統一された言語を必要として活動していましたが、ここにリシュリューは国家の統一と海外への外交的影響力を得る道具の一つとしてフランス語の統一化を考え、彼ら文法学者たちの仕事に公的な評価を与えたのです。

    アカデミー・フランセーズの役割は2つです。芸術と科学のためフランス語の保守・整備を行うことと、辞書の編纂です。アカデミーの規約・規則はリシュリューの署名入りで50条からなり、いくつか廃止された項目もありますが1635年当時のものがまだ有効です。40人に限ると定められた会員は「不死身」と言われ、これはリシュリューがアカデミーの印章に「À l'immortalité(不滅)」と入れたことに由来します。1642年にリシュリューが亡くなると、会員たちは後見人にマザランではなくセギエを選びました。マザランのフランス語が十分ではなかったからだと言われています。

    (参考文献 インターネットサイト Académie française https://www.academie-francaise.fr/)

  • フランス海軍
  • ヨーロッパで早くから船団海軍を整えていたスペインは、海洋探索を行い、コロンブスに援助を与え新大陸を発見して植民地を得ました。アジアにも探索の船を派遣し、交易を行っていました。軍事的にはオスマン帝国との海戦に勝利し、海上覇権はスペインが握っている状況でしたが、リシュリューが生まれたころに(1588年)イギリス艦隊との海戦があり、これを境にスペイン艦隊の栄光は陰りはじめ、代わりにイギリス艦隊が力を持ち始めました。一方でオランダはスペインからの独立戦争中でしたが、17世紀の初めに東インド会社を設立し、アジア交易で経済的に成功しました。このオランダの成功に触発されて、スペインもイギリスも海洋艦隊の整備・再編成を行います。

    しかしこの頃のフランスは国内での宗教戦争真っただ中で、王室が国として海軍を整えられる状況ではありませんでした。フランスではノルマンディー地方で商業船が活動したり、ラ・ロシェルのユグノーが船を所有し、バスク地方の捕鯨船が活動していました。海上の経済活動で得られる富は魅力的で大貴族たちは海軍の要職を欲しがり、ブルターニュ地方では地方議会が海上の司法権を握っていました。モンモランシー公やスービーズ公は提督職に就任しますが、この頃の提督は単なる称号に過ぎず、海軍を編成するなど程遠いことでした。ユグノーの反政府派の船は大西洋岸の港を攻撃し、急ごしらえのブルターニュ艦隊を破り、ラ・ロシェル沖のレ島を占領しました。

    海軍の必要性を強く感じていたリシュリューは1626年に海洋委員会を整備し長官に就任すると、翌年1627年提督職を廃止し沿岸部の土地を政府の直接管理下に置きました。ロワール川流域での商業活動にもこれまではオランダ船が主に使われていましたが自国の船を使うよう命じ、流域地方の貴族が得ていた利権を自分の勢力下に移し替えました。またブルターニュ地方に海軍の拠点を置いてラ・ロシェルとレ島のユグノーに備え、1628年にラ・ロシェルの攻囲戦に勝利すると船の建造を始め、ブルターニュ地方は造船中心地となり、ブレストは主要な造船所かつ大型船の本拠地として発展しました。こうして1636年までにフランスは40隻近い船を所有し、1638年にはバスク地方のフエンタラビアでスペインとの海戦に勝利したのです。これはフランスにとって初めての大規模な海戦でした。加えてリシュリューは海軍の別の役割として海上の経済活動の護衛を考えていました。海外植民地への入植や交易も奨励し、新フランス会社や西インド会社への援助を行いましたが、リシュリューは三十年戦争へ参入したためこの戦争に忙殺されて海軍に十分な予算を割くことができず、植民地政策はあまり成果を上げられませんでした。

    第二次世界大戦中には彼の名を冠した戦艦リシュリューが建造されました。そしてリシュリューの創ったブレストを拠点とする造船所は再編成を経ながらも現代まで続いているのです。

    (参考文献 The development of french naval policy in the seventeenth century, French History , 1998, Vol. 12 No. 4, pp 384-402)