17世紀前半に活躍したフランスの政治家でありカトリックの枢機卿。国内では大貴族や新教徒の勢力を削ぎ、王権を強化させ、中央集権化に努めました。国外では戦争により領土を広げ、ヨーロッパにおけるフランスの存在感を強めました。特に、国を宗教ではなく国家としてまとめ国家の利益を最優先にする考え方を持ち、三十年戦争など動乱期のヨーロッパで、複雑な外交政策を繰り出しフランスを大国へと押し上げました。
下級貴族の三男に生まれた少年は司教になる
ポワトゥ地方のリシュリューを本拠地とするデュ・プレシ家に三男二女の三男として1585年9月9日に生まれたアルマン・ジャンは、パリのサントゥスタッシュ教会で洗礼を受けました。病弱な子供だったようです。父フランソワは地方貴族で、母シュザンヌは裕福な平民階級(法律家・弁護士の家)の出身でした。結婚持参金を目当てにした貧乏貴族とブルジョワの結婚だったようです。父フランソワは当時の国王アンリ3世に仕え、1589年にアンリ3世が暗殺された後もしばらくは宮廷での地位を変わらずに保っていましたが、アンリ4世の治世が始まってまもなく1590年に病気で亡くなります。母シュザンヌはパリの屋敷を売り払い、ポワトゥの領地リシュリューへ戻りますが、1594年アルマンが9歳になるとパリへ勉強しに行かせました。
長男のアンリは当主として宮廷で働くことが期待され、次男のアルフォンスは一家が所有するリュソンの司教職に就くよう、三男のアルマンは軍人となるべく、それぞれ教育されました。アルマンはまずパリのコレージュ・ド・ナヴァールへ入りラテン語と弁論術を学び、その後プリュビネルのアカデミーで宮廷作法や武術などを学んでいました。しかし次男のアルフォンスが修道院に入りたいと言い出して司教になることを拒否したため、アルマンが進路変更を余儀なくされます。そこで1602年にコレージュ・ド・ナヴァールへ戻りました。
神学を学ぶ彼は非常に勤勉で優秀でした。1606年にアンリ4世から司教に任命されましたが、教会の定める司教の規定年齢に足りなかったため、1607年に教皇の特赦を得るためローマへ行きました。その後パリ大学神学部(ソルボンヌ)の特待生となり、優秀な成績で試験に合格、1608年に博士号を取りました。パリは当時アンリ4世の時代で、活気にあふれ拡大しつつありました。この時期には一生関りを持つことになるような人々と出会い、人脈を築くこともできました。そして1608年の12月に彼は愛するパリを離れ、リュソンへ赴任しました。
若く有能な司教として働き、三部会で演説する機会を得る
若い司教が赴任したのは、アルマン自身が「フランスで最も醜く、最も汚れた司教区」と言った荒れ果てた町リュソンでした。人口は3000人ほど。宗教戦争の影響で建物は壊れ、湿地帯にあるので虫も多く、汚れていました。劣悪な住環境を嘆いた彼の手紙が残されています。アルマンは有能な司教でした。教区の聖職者たちを指導し、信徒たちには宗教的なことだけでなく生活上のことにも気を配ってやったのです。のちの国政に生かされるような行政的な才能を発揮していました。リュソンはユグノー優位の地方に近く位置していましたが、アルマンはユグノーに対する偏見もなく、寛容でした。これはのちに彼が宰相になったときでさえも、そうでした。また彼はパリで知り合った友人たちとも相変わらず連絡を取り合っていましたが、特にリュソンでの一番の親交は後にジョゼフ神父として知られるフランソワ・デュ・トランブレーです。
こうした中、1610年5月に国王アンリ4世が暗殺されました。兄アンリがアンリ4世の寵臣であったので、アルマンは摂政(王太后)マリ・ド・メディシス宛に忠誠を誓う手紙を書き、兄に託しましたが、兄はその手紙を大げさだとして出しませんでした。アルマンは自分でパリへ行く決心をします。こうして同年6か月ほどパリに滞在し、この頃友人の家でバルバンと知り合い、バルバン経由でコンチーノ・コンチーニと知り合いました。1612年にユグノーのローアンがサン・ジャン・ダンジェリーの支配者となると、アルマンは自分の影響力を利用して県の秩序を維持し、国務長官ポンシャルトランに協力する由手紙を書き送りました。また1614年にコンデを筆頭とする主要な貴族たちが宮廷に反旗を翻した時は、コンチーニ宛に協力すると手紙を書いています。このとき内戦は避けられ、この後三部会が開かれることになりました。
アルマンは積極的に行動し、友人たちの協力も得て、ポワトゥ地方の聖職者代表として出席することになりました。三部会は1614年10月27日に始まりましたが、各身分の意見・要求の対立から紛糾し、これといった重要な結果を残せないまま1615年2月23日に閉会しました。このときリュソンの司教による1時間を超える熱弁が注目を浴びました。コンチーニとマリ・ド・メディシスがこの若い司教の名を心に留めたのです。
中央の政治の世界にデビューするも失脚 亡命を経て、再び宮廷に登場 枢機卿になる
マリ・ド・メディシスとコンチーニに注目されたアルマンはパリ滞在が長引き、リュソンの教区へは関与が薄くなっていきました。しかし彼の望む政治家としての登用が確実になってきたのです。1615年の秋にスペイン王室と婚姻が結ばれ、フランス国王ルイ13世はスペイン王女アンヌ・ドートリシュと、スペイン王太子フェリペはフランス国王の妹エリザベートと結婚しました。スペインとの絆を強めるこの二重結婚にユグノーが反対し、大貴族たちも反抗的な立場を取りました。コンデを筆頭とする貴族たちとコンチーニが支える王太后との間に戦争が勃発し、1616年にルーダン条約が結ばれて終結しました。ルーダン条約以降、王太后側では古くからの廷臣たちが力を失い、コンチーニが力を伸ばしてきました。アルマンもコンチーニ側についています。この頃アルマンは、王妃アンヌの聴罪司祭となり、秘書・侍従的な職に就きました。さらにまもなく国務会議のメンバーに加わり、軍務と外交に関する閣僚になりました。しかし再びコンチーニに対する不満から、コンデら大貴族が反乱を起こし、コンデは逮捕・投獄されます。
こうした間に、国王ルイ13世は成長していました。彼は摂政である母親に政治の実権を握られていましたが、もう15歳になりました。国王の寵臣リュイーヌは自立心が芽生えた国王をそそのかし、コンチーニに対する陰謀を企てたのです。果たしてこの計画は実行され、1617年4月24日にコンチーニは逮捕され、殺されました。王太后派は一掃され、王太后はブロワへ移ることになり、アルマンも同行しました。しかし彼は自分の司教区へ戻れとの命令を受け取り、クーセー修道院へ行きます。王から要注意人物と見られていたアルマンは翌年1618年さらにアヴィニョンへ追放され、ここで1年を過ごしました。
今度はリュイーヌに対する貴族の不満が王太后への支持となり、1619年2月21日に王太后は幽閉されていたブロワから脱出しました。国王側では戦争の準備が始められ、衝突が避けられない様相を示してきました。このとき、アルマンの盟友ジョゼフ神父らがリュソン司教アルマン・デュ・プレシが和平の交渉をすることで争いを回避できると提案したことが国王側に受け入れられ、アルマンはアヴィニョンから呼び出され交渉を行いました。こうして4月30日、アングレームの和議により王と王太后はとりあえず和解しました。この頃この年7月に敬愛する兄を決闘で亡くし、アルマンはショックを受けます。次兄アルフォンスが修道士であるため、アルマンがリシュリュー家の当主となりました。そして翌年1620年、王太后らは再び国王に反旗を翻します。再びリシュリューが調停役となり、和議が結ばれました。こうした功績から王太后はリシュリューの枢機卿昇進や国務会議入りを国王側に要求しますが、なかなか通りません。
一方、国王は1620年から1621年に南西部のユグノー制圧に進軍しました。寵臣のリュイーヌは軍を動かした経験がなく、思うような成果は上げられませんでした。そして1621年12月にリュイーヌは熱病で亡くなります。寵臣を失った国王は、リシュリューの能力を渋々認めざるを得なくなってきました。こうしてとうとう1622年9月5日、リシュリューは枢機卿の地位を手に入れました。
宰相となり国内の新教徒や隣国スペインと戦いながら自分への陰謀に勝つ
晴れて枢機卿となったリシュリューですが、国務会議にすんなりと入ることはできませんでした。ルイ13世はリシュリューを嫌っているようでした。国務会議ではシルリとその息子が権力を握り、1623年には警察総監ションベールを解任し、ラ・ヴューヴィルを入閣させたりと、自分たちの意に添うように仕切っていました。しかし二人は財政問題で解任され、代わりにラ・ヴューヴィルが首席大臣となります。
この頃、ヴァルテリン回廊におけるスペインとの関係が喫緊の問題として生じてきましたが、ラ・ヴューヴィル自身にはこの問題を切り抜ける自信がありません。そこで彼は渋々ながら王太后の推薦するリシュリューを1624年4月、正式に国務会議のメンバーとしました。彼は早速ラ・ヴューヴィルを追い落とし8月13日事実上の宰相となります。ここからルイ13世、王太后、リシュリューの三頭体制が始まりました。
11月にはヴァルテリン回廊に出兵しスペインの侵攻に対抗しました。国王が対外戦争を始めると国内ではユグノーが不満を募らせ、1625年1月、ユグノーの貴族スビーズとローアンは国王に反乱を仕掛けます。ユグノーの街ラ・ロシェルはスビーズを支持しました。しかしスビーズは蜂起に失敗し1626年2月、ラ・ロシェルの和約が結ばれます。ユグノーは一旦、ルイ13世と和解しました。国内外の問題に一段落つくや王権の強大化に反対する王弟や国内の大貴族らが反乱を起こします。8月、若いシャレー伯が見せしめ的に処刑されました。1627年ユグノーの拠点の一つであるレ島へイギリスのバッキンガム公が支援のために艦隊を送りました。レ島はラ・ロシェルの対岸にあります。フランスが以前の和約を破って要塞を建設したことに反発したものでした。バッキンガムの試みは失敗しましたが、ユグノーとフランス国王の対立が拡大し、ラ・ロシェルのユグノーも反乱に参加しました。11月、リシュリューはラ・ロシェルでの戦闘に参加し、ラ・ロシェルを封鎖し孤立させるための巨大な堤防を築く命令を出しました。1年近くの封鎖によりラ・ロシェルは飢餓や病気で人口が減り1628年10月28日にとうとう降伏。翌年のアレスの王令により、ユグノーの武装権をはく奪。これにより国内での対ユグノーは国王側の勝利となりました。
それとほぼ同時に起きていたマントヴァ継承戦争に1629年早々に介入し、2月にルイ13世とリシュリューは軍を率いてアルプスを越え、3月イタリアでひとまず勝利しました。しかし12月に再びリシュリューは今度は単身でイタリアへ遠征します。1630年7月にオーストリアの皇帝軍がマントヴァを占領し、8月にリシュリューはパリへ戻りました。9月ルイ13世がリヨンで重病に陥り、リシュリューの進退も危うくなりかけますが、王は回復。10月に停戦調停が行われました。この時の教皇特使がのちに宰相となるマザランでした。
さて対スペイン強硬政策をとるリシュリューに対し、王太后は完全に敵対します。リシュリューの失脚を息子であるルイ13世に迫りますが、それを察知したリシュリューは二人の会談の場へ乱入し、おそらく修羅場が訪れました。誰もがリシュリューの失脚を確信しましたが、国王ルイ13世は母親よりもリシュリューを選んだのです。これが11月11日のいわゆる「欺かれた者たちの日」事件で、これ以降、国王と宰相の二人三脚が始まりました。
王と二人三脚の日々 ドイツ三十年戦争に直接介入
1631年は早々に王太后は陰謀を企て、王弟はリシュリューに対して反乱を起こします。王太后は軟禁され、王弟はロレーヌへ逃亡しました。その後王太后はケルンへ亡命し、ロレーヌはフランスの支配を排除するため神聖ローマ皇帝軍と同盟しようとしますが、ルイ13世が軍を率いてやってきたので、フランスに従わざるを得なくなり、王弟はブリュッセルへ逃亡しました。
王弟ガストンはルイ13世に世継ぎがいないため王位継承者ですが、兄ルイ13世とリシュリューに何かと反抗する存在でした。リシュリューにとっては、守らねばならない存在でありながら、いざ国王が交代することがあれば、自分を嫌っているだけに自分の立場や命を危うくする恐れがあり、厄介な存在です。王太子の誕生をどれだけ待ち望んでいたことでしょう。1632年王弟ガストンは逃亡先のブリュッセルでモンモランシー公と反乱を企てます。9月1日に反乱は失敗に終わり、数々の戦績を残したモンモランシーでしたが容赦なく10月に処刑されました。その後再び王弟ガストンはブリュッセルへ逃亡しました。11月にリシュリューは病気になり、リュイユにある邸宅でしばらく療養しました。同じ頃、同盟国であり、ドイツにおいてフランスの分も戦争をしていたスウェーデンの国王が亡くなりましたが、同盟は引き続き継続されることが確認されました。病床でリシュリューは以前にも増してドイツでの戦争にフランスが加担することを考えていたことでしょう。腹心のジョゼフ神父は特にドイツとローマの情勢についてのリシュリューのアドヴァイザーだったようです。1633年9月にルイ13世はロレーヌに侵攻しました。反乱を起こした王弟ガストンがロレーヌへ逃亡し、ロレーヌ公の妹と勝手に結婚したのです。ルイ13世は翌年にはロレーヌを占領し、アルザス地方の諸公国はフランスの保護下に置かれることになりました。
1633年10月と翌1634年5月、リシュリューは再び病床に伏していました。しかしドイツでの戦争における同盟側プロテスタント諸侯の戦績が芳しくなく、リシュリューはフランスの直接軍事介入には積極的ではありませんでしたが、外交工作は続けました。
一方で1635年にリシュリューは、アカデミー・フランセーズを創設しました。また艦隊を派遣して西インド諸島のマルティニクとグアドループを占領しました。1635年3月にスペイン軍が神聖ローマ帝国の選帝侯トリーア大司教を逮捕したことをきっかけに、5月19日フランスはスペインに宣戦布告をしました。スペイン領南ネーデルラントに侵入して、三十年戦争に直接の軍事介入を行うことになったのです。
パリの危機と国内の反乱、陰謀、王太子の誕生 「国家の敵のほかに私の敵はいなかった」
1636年、国外では戦況が思わしくなく、神聖ローマ皇帝軍はフランスの味方であるリエージュに侵攻し、その後スペイン軍と合流した皇帝軍はフランス国境へ向けて進軍してきました。8月、ピカルディ地方が侵略されると、パリに危険が迫りました。人々は混乱に陥ります。誰もがリシュリューを非難し、リシュリューはと言えば病気で床についており、肉体的にも精神的にもまいっていました。辞職をほのめかすリシュリューに対して責任を取るよう突き放し、代わりに底力を見せたのはこれまでどちらかと言えば政治に無関心だった国王ルイ13世でした。国王は国民に協力を呼びかけ、リシュリューもまたジョゼフ神父の叱咤激励を受けて立ち上がり、国民に対して協力を求めました。その結果フランス中が一体となり、何とか敵を阻むことが出来ました。
しかし国外の脅威がなくなっても、国内では依然として王弟や貴族の反乱が起き、1637年には重税に苦しむ中流階級や下流階級も反乱を起こしました。これらはすぐに制圧され、地方に対して王政がさらに強化されることとなりました。国外の戦況はフランスに有利に傾きつつあり、翌1638年にはアルザス地方に侵攻、またリシュリューが創設した海軍はスペイン艦隊を破り、スペインの国力に打撃を与えました。9月には待望の王太子ルイが誕生、後のルイ14世です。1639年はノルマンディにおいて反国王税を掲げた「ヴァ=ニュ=ピエの反乱」が起きました。またイタリアにおけるフランスとスペインの対立では、フランス優勢となり、翌年1640年にはスペイン軍はイタリア・ピエモンテから完全に撤退しました。フランスはさらにスペイン領南ネーデルラントのアラスも占領しました。この年は第2王子フィリップも生まれ、長年の跡継ぎ問題が完全に払拭されました。
長年にわたる戦争と重税に、高等法院が国の資金調達計画に反対意見を出すと、ルイ13世は1641年に高等法院の政治への関与を禁止する法令を出しました。一方でこの年、リシュリューは枢機卿宮に劇場を建設し、これは現在のコメディ・フランセーズの原型となりました。この頃のリシュリューは戦争に忙しくて枢機卿宮を留守にすることが多く、後には病に倒れ、実際にこの劇場で観劇したのは数回のみでした。
翌1642年の初めにルイ13世とリシュリューは南フランスのルシヨンでの軍事作戦に参加するため出発し3月にナルボンヌに入りました。二人とも病を押しての遠征で、リシュリューの方は発熱し右腕の腫瘍も悪化し、ルイ13世だけがさらにペルピニャンへ向かいました。残されたリシュリューは5月に当地で遺言書を作成し、国王の元へ向かいました。そのころ、ルイ13世の寵臣サン・マールによる陰謀が発覚します。連座した者たちの処分を国王と相談しながら、リシュリューはパリへ向かいました。そして9月、リシュリュー自身が取り立てて国王へ推薦したサン・マールは処刑されました。瀕死のリシュリューはお気に入りの地リュイユでしばらく過ごし、11月にパリの枢機卿宮へ戻りました。そして月末、病状が悪化し、翌月12月4日に57年の生涯を終えました。