用語集

サン・バルテルミの虐殺 フランスにおけるカトリックとユグノーの対立が激化・戦争状態に入って10数年後の1572年、国王シャルル9世の妹マルグリットとナヴァール王アンリの結婚式に集まったユグノー貴族たちが殺害され、騒動はパリ市民や地方にも広がり、全国でユグノーが殺された事件
サン・テスプリ騎士団 聖霊騎士団とも。既にあった聖ミカエル騎士団の権威が低下したことから、アンリ3世が1578年に創設した騎士団。princeの称号を持つか有力貴族でなければ所属できないと定めた。
一家が所有するリュソンの司教職 1584年にアンリ3世からリュソンの司教職の所有を許可された。当時、聖職禄は重要な収入源で、教区の修道院などからの収入も含まれていた。
プリュビネルのアカデミー アントワーヌ・プリュビネルがパリで開いた私立の軍事学校。馬術・武術・軍事・ダンスや宮廷作法について学ぶ。
ナヴァール学寮 コレージュ・ド・ナヴァール。パリ大学のカレッジの一つで寄宿舎付学校。当時は寄宿舎付きのカレッジがいくつかあり、ほかにソルボンヌ学寮、カーディナル・ルモワーヌ学寮等々。基礎科目を学んで卒業するもあり、他に軍事学校に進むもあり、さらに上(パリ大学)に進学して発展的な勉学を修めるもあり(学者や聖職者になる)。
司教の規定年齢 当時は司教は26歳以上と定められていた。
トレント公会議 1545年から1563年まで断続的に行われた、カトリック教会の公会議。現在のイタリア・トレントで行われたのでトレント公会議、もしくはトリエント公会議とも言う。もともと公会議は全キリスト教の各代表者が集まって行われていたが、このトレント公会議はプロテスタントの宗教改革に対して、カトリック教会の立て直しをはかる目的で招集された。教義について討論され、典礼などが改めて制定された。
教皇至上派 教皇の権威は国王の権威より上だと主張する人々。ガリカン派と反対の主張。
ガリカン派 ローマ教皇の影響力を国内から排除し、フランス国内の教会に関することはフランス国王の支配下に置こうという考えをガリカニズムといい、それを支持する人々をガリカン派という。
ルーダンの憑依事件 1634年にフランスのポワトゥ地方ルーダンで行われた魔女裁判に関わる一連の事件。ウルスラ会の修道女たちが集団的ヒステリー状態になり、悪魔に憑依されたと訴えた。調査の結果、ユルバン・グランディエという司祭が悪魔を使ったためだとされ、魔女裁判にかけられ火刑に処された。美男で教養もあり説教も上手な司祭が、女性関係で問題を起こしたり、政策に絡んでリシュリューに反抗したり、地元のほかの聖職者から疎まれていたことなどが相まって、苛烈な裁判と公開処刑が行われた。
ジャンセニズム 人間の原罪は非常に重大なもので、救われるためには完全なる悔悛が必要だと考える。またそれはあらかじめ予定されていて、救われる人間は限られているとする説を持ち、カトリック教会からは異端視された。
アミアンの包囲戦 フランス・スペイン戦争(1595-1598)で1597年にフランスのアミアンで行われた戦闘。最初スペインがアミアンを占領し、当時のフランス国王アンリ4世はイギリスと共同でアミアンを奪回した。
三部会 中世から近世にかけて行われた、フランスで三つの身分(平民・貴族・聖職者)が代表者を出して議論する議会。14世紀に始まったが、17世紀に1度行われ、その後は長いこと行われず、フランス革命時の18世紀後半に約170年振りに行われ、これが最後となった。
パリ高等法院 アンシャンレジームに(中世からフランス革命の頃まで)存在したフランスの最高裁判所。後には国王の勅令が合法的かどうかも審議するようになり、立法のチェック機能も帯びていた。ほかに地方にも高等法院は設置された。
ルーダン条約 反乱したユグノー勢力の先頭に立ったコンデ公と摂政マリ・ド・メディシスら政権側との間に結ばれた1615年の条約。コンデ公らの反乱に対し、政権側が年金や賠償金を払うことが決められた。またコンデ公はコンチーニが所有していたアミアンの総督職を引き継ぎ、国務会議の主席に任ぜられた。
アングレーム条約 蟄居先のブロワから逃亡した王太后と支持者たちが国王と対立したが、リシュリューが調停役となって内戦は回避され、1619年4月30日にルイ13世とマリ・ド・メディシスの間に結ばれた条約。しかしながら王太后の宮廷への影響力は回復できなかったため、王太后派には不満が残った。
アンジェの和議 反リュイーヌとして王太后の元に集まった勢力と国王が対立したが、今回もリシュリューの調停によって戦争は回避され、1620年8月10日にルイ13世とマリ・ド・メディシスの間に結ばれた条約。軍を動かすような激しい対立はこれで終結した。王太后は元通りパリの宮廷に戻り、この和議の褒賞としてリシュリューを枢機卿にするよう国王に働きかけた。
リュイーヌの甥とリシュリューの姪の結婚 リュイーヌの甥コンバレ侯爵アントワーヌとリシュリューの姪マリ・マドレーヌは1620年に結婚したが、2年後にアントワーヌは戦死、マリ・マドレーヌは18歳で寡婦となった。
ヴァルテリン回廊 現イタリア北部。アルプスの山中にあり、スイスのグラウビュンデンに接している。谷筋に進みアルプスを越えられるので、ハプスブルク家としては南ネーデルラントとオーストリア間の移動路として使用したかった。この地域はカトリック系住民が多く、近隣のグラウビュンデンを支配するプロテスタント系領主とはしばしば対立が生じた。
ベゾアール石 動物の排泄物が化石状になったもの。解毒作用があると信じられていた。