1623年から1630年(もう少し詳しく)
この時期のリシュリューを彼が抱えていた問題別にまとめてみた
首席大臣までの道のり
ヴァルテリン戦争
イギリスとの結婚、アミアン事件
シャレーの陰謀
ユグノーとラ・ロシェル攻囲戦
北イタリア侵攻
欺かれた者たちの日
国王ルイのリシュリューに対する不信感は強く、枢機卿に就任したもののすぐには諮問会議に入ることはできなかった。相変わらずブリュラール・ド・シルリと息子ピエール・ド・ピュイジューが権力を握っていたが、国政よりも自分たちの権力を守ることを優先しており、次第に国の行く末が危うくなってきた。彼ら親子は1623年1月に財務大臣ションベールを失脚させ、代わりに自分たちに隷属させる目的でラ・ヴューヴィルを諮問会議に入れた。しかしそうこうしているうちに彼らはスペイン対策で失敗した。ヴァルテリン回廊に侵攻したスペインに対して強く出ることができず、スペインの宰相オリバーレスとの交渉では妥協案のパリ条約を2月に締結。この条約ではヴァルテリン回廊に関する対立が終息するまで教皇グレゴリウス15世がヴァルテリン地方を預かることになり、この結果にサヴォア公やヴェネツィアから抗議が起きたが、フランス側は何も対応策を取らなかった。国内外からの批判にさすがに王太后マリ・ド・メディシスもこれまでのスペイン融和政策を一時的に手放し、反スペイン派を支持した。またラ・ヴューヴィルも自分の立場に不満を持ち始め、ブリュラール親子の財政不正を暴き、王太后と手を組んで親子を辞任に追いこむと自分が首席大臣となった。王太后の懐刀リシュリューを入閣させることで自分の立場が危うくなると予感していたラ・ヴューヴィルは、最初リシュリューに自分の顧問的な役割を期待していたが、リシュリューにやんわりと断られた。入閣の話も最初は健康上の理由から断ったリシュリューだが、王と王太后に説得される形で1624年4月に2度目の諮問会議入りを果たした。
1621年4月15日にフランスとスペイン間でマドリッド条約を批准し、ヴァルテリン谷の支配権をスペイン人からグリゾン(グラウビュンデン)人に移すと決められたが、実際はスペイン軍はヴァルテリン谷に留まり続け、さらに1622年1月29日にスペイン領ミラノ公国とグリゾン人との間でこの支配権をグリゾン人が放棄するというミラノ条約が秘密裏に結ばれた。このことでヴァルテリン谷はスペインの占拠が正当化され、マドリッド条約が一方的に破棄される事態となったため、フランスは対応を迫られた。このころ国内南部のユグノーの平定に何度か軍を差し向けていたが、これを優先すべきか、ヴァルテリンに派兵するべきか。リシュリューはヴァルテリン派兵を主張した。
ヴァルテリン谷はもともとミラノ公国に属し、住民はイタリア系だった。近隣の現スイス南東部の一帯グリゾン地方にグリゾン人は3つの自治独立国家を形成し、スイスとも同盟関係を結んでいた。16世紀初めにフランス王がミラノ公国を占領したときに、ミラノ公がこのヴァルテリン谷をグリゾン人に譲渡した。その後グリゾン人は改宗して新教徒となり、谷の住人も改宗させようとしたが、カトリックのスペインがこれを阻止しようとした。さらにスペインはアルプス越えの回廊として谷を必要とし、谷の通行権を得ようと1617年グリゾン人との交渉を試みたが失敗に終わった。しかし宗教的な対立から1619年5月に谷のカトリックと新教徒との間に戦争が起き、1620年7月の大殺戮、9月の報復戦を経て10月に谷はカトリック勢力のものとなり、援軍を送ったスペイン勢力の支配となった。一方でフランスはこの地方のグリゾン人と友好を保ち、傭兵として雇うという歴史を持っていた。すなわちフランスはこの谷で軍隊通行と傭兵を募集する権利を保証金を支払うことで得ていた。このため谷のスペインによる占拠は見過ごすことができなかったはずである。しかし1620年にスペインが谷を占拠したころ、フランスでは国王と王太后が対立をようやく終わらせたころだった。国内のユグノー対策は行っていたものの、国外対策は後れを取っていた。ドイツを舞台とした戦争が本格化し、ヨーロッパの地図を塗り替えるべく諸国が争っていたのにフランスは…。同じカトリックのオーストリア帝国もスペインも、フランスにとっては脅威となっていた。ヴァルテリン谷のスペイン占拠も谷の宗教戦争でカトリックを支援する名目で行われたのだった。こうして、谷のグリゾン人は同盟国フランスに対して介入を要請、さらにヴェネツィア共和国もスペインのイタリア進出を危惧して同様の要請をし、ここに冒頭の1621年マドリッド条約批准となったのだった。
ミラノ条約によりヴァルテリンの支配権がスペインに移ったころ、リシュリューはまだ要職には就いておらず、国王やその側近たちからは警戒されていた。フランスは1623年2月にパリ条約でサヴォア公国、ヴェネツィアと同盟を結ぶが、形ばかりでほとんど無策のままだった。これに対しファンカン(Fancan)という論客がヴァルテリン問題における政府の失策を非難する文書が出回った。これはリシュリューがファンカンの文章力を買って書かせたものだと言われている。この後、フランスは教皇庁に働きかけ、ヴァルテリン問題を教皇庁預かりにしてスペイン軍は退去することになったが、これは同盟国サヴォアとヴェネツィアから非難されることとなった。
こうした中、1624年4月にリシュリューは国王の諮問会議に加わることができた。7月の会議ではヴァルテリン問題を議題に上げ、スペインに対する武力行使を主張している。そしてその準備として、教皇預かりになっているヴァルテリンの支配権をスペインに返すよう働きかけ、スペイン側のミラノ公国に対しては同盟国のサヴォア公国がジェノヴァを攻撃することでヴァルテリンへの戦力を分散すること、国内ユグノーの動きを抑えること、軍事行動に必要な財政に対処すること、スペインが戦っている南ネーデルラントの戦況に注視することを挙げた。そして8月に首席大臣になると、前年に結んだパリ条約の更新を9月に行い、11月にはヴァルテリンへ派兵した。駐屯していた教皇軍を追い払って翌年1625年1月にヴァルテリンの支配権を取り戻したが、枢機卿が教皇に軍を差し向ける事態に国内外から反発が起きた。さらに国内ユグノーの反乱やそれに対するイギリスの介入、ひっ迫する国家財政、また6月にはスペインと南ネーデルラントの戦争が終了し、ヴァルテリン谷における戦力を維持することが難しくなった。教皇庁はフランスに対して、ヴァルテリン谷ではカトリックを信教とすると約束し条約を結ぼうとしたが、リシュリューはこれを拒否した。そして1626年3月5日、改めてモンソン条約を結んだ。この条約の内容はヴァルテリンの支配権をグリゾン人に戻すこと、ヴァルテリンではカトリックのみ認めること、ヴァルテリン谷の住民はグリゾン人の合意のもと一部自治を認めること、ヴァルテリン谷の通行をフランスとスペイン双方に認めることである。またこの条約によってジェノヴァとサヴォアの戦争も終了となった。
この戦争でリシュリューが得たものは何か、条約の内容から考えてみる。まず新教徒グリゾン人のヴァルテリン支配権を取り戻したこと。カトリック国フランスの枢機卿が新教徒グリゾン人を支援するということがまず国際的な理解が得られなかった。ヴァルテリンではカトリックのみ認めることとグリゾン人の合意のもとに一部自治を認めること。イタリア系ヴァルテリン住民の信教と生活を守ったことで、カトリックの守護者を任ずるフランスの役割は果たせた。ヴァルテリン谷の通行をフランスとスペイン双方に認めること。スペインが谷を通ることで、北イタリアのスペイン系ミラノ領とオーストリアを結ぶ道ができた。これにより、南ネーデルラント、フランシュコンテ、ミラノ、ナポリ、シチリア、スペイン、オーストリアを結ぶハプスブルク家のいわゆるスペイン街道が形成され、ヨーロッパにおけるハプスブルク家の流通を円滑にした。ジェノヴァ-サヴォア戦争の終結。対ジェノヴァ戦争にサヴォアと同盟したが、条約締結の場にはサヴォアは呼ばれなかった。またスペイン-オランダ戦争対策のために同盟したオランダも呼ばれなかった。このため両国間との関係が悪化した。
国益のためにはカトリックの枢機卿であろうとも新教徒と手を結ぶ。同盟国として援助する姿勢をみせて、しかしフランスの国益を第一にする狡猾な行動。リシュリューの初戦はそんなイメージを残した。そして彼は国内の新教徒対策に迫られ、信心派に非難され、悪化する財政に悩まされ、それでいて常備軍整備の必要を感じ、次々と手を考えていくのだった。
ヴァルテリン問題でスペインと対立し、ユグノーの対処にも迫られているフランスは、同様にスペインと対立するイギリスやオランダとの同盟を考えていた。船を持つユグノーとの戦争に、船を持たないフランス王室は大貴族やイギリスの船を当てにするしかなかった。オランダは領土問題でスペインと対立し、イギリスはこれまでフランスのユグノーを支援してきたが、スペイン王室との縁談話が破綻してからはフランスと手を組む方向に舵を切っていた。このため1625年1月にユグノーの大貴族スービーズ公が反乱を起こしたとき、イギリスは船をフランスに貸し出して鎮圧に手を貸した。イギリス国王チャールズ1世とフランス王妹アンリエットの結婚話は、その交渉はリシュリューとイギリス国王の寵臣バッキンガムの間で行われ、一枚上手のリシュリューがフランスに有利な結婚をまとめた。新王妃とフランスから連れて行く側近たちはカトリックを信仰し、誕生する子供の教育は王妃が采配するという条件をイギリス側に飲ませたのだ。このときイギリス側からはプファルツのフリードリヒ5世を復位させるために協力を要請されたが、ドイツ戦争に介入する気のないリシュリューはぬらりくらりとかわした。そして1625年5月にイギリス国王の代理人としてシュヴルーズ公が出席した結婚式が行われた。この時の事件がのちにデュマの小説「三銃士」のエッセンスとなる。
リシュリューはイギリスからの使節団をリュクサンブール宮殿で歓待する役目を仰せつかり、自分も建設計画に携わった見事な宮殿ですばらしい宴を催した。この頃のアンヌ・ドートリシュは数年前の流産からルイ13世とは不仲で、不遇をかこっていた。側近のシュヴルーズ夫人は王妃にバッキンガム公のすばらしさを吹聴し、宮廷の恋の真似事を王妃に楽しませようとしていた。またこの頃のリシュリューは、華やかで美しい王妃やシュヴルーズ夫人の歓心を買おうとしていたらしい。これを不快に思う王妃が興味をバッキンガム公にあえて向けたのかもしれない。ともかくも1625年6月に王妹アンリエットを見送る一行はアミアンに滞在し、夕べに少人数で庭を散歩することがあった。アンヌ王妃とシュヴルーズ夫人、バッキンガム公とホランド伯の4人での散策は、日が暮れてくると次第にアンヌ王妃とバッキンガム公が二人きりになっていった。そして間もなく王妃の悲鳴が聞こえ、近侍が駆け付けると取り乱した王妃と困惑したバッキンガムの姿が…。さらに翌日王妹一行はイギリスに向けて出発したのに、バッキンガム公は一人戻ってきて、王妃に再び面会した。
このことはパリにいた国王ルイの耳にも当然リシュリューの耳にも入り、国王は激怒。これ以降、バッキンガムは入国拒否となった。リシュリューにはアンヌ王妃の近辺にも、イギリス王妃となったアンリエットの近辺にも情報提供者がいた。イギリス国王チャールズとアンリエット間も宗教的な摩擦で度々不都合が生じるようになり、これに関してフランス側との調整を必要としたバッキンガムは入国を希望したが、リシュリューは拒否し続けた。このことで「アンヌ王妃を好きなリシュリューがバッキンガムに対して仕返しをしたのだ」と噂されるようになり、デュマの小説に格好のネタを提供することとなった。
アミアン事件に関わったアンヌ王妃の近侍たちは解雇され、首謀者のシュヴルーズ夫人は難を避けてイギリスへ渡った。この頃ルイ13世の弟ガストンに結婚話が持ち上がっていた。相手は同じブルボン家の支流、ブルボン=モンパンシエ家の相続人マリである。彼女は名門である上に、マリの母アンリエットは夫の死後、有力なカトリック勢力のギーズ公と再婚したため、王太后マリ・ド・メディシスは乗り気であった。ルイ13世としては仲の良くない母が弟を溺愛しているのが気に入らないうえ、有力貴族との婚姻で弟の地位が上がるのが許せなかった。リシュリューは王太后に気を使いつつ、ルイ13世の不満にも付き合った。そんな中、帰国したシュヴルーズ夫人はルイ13世の異母兄弟など大貴族たちの不満を利用して、リシュリューに対して反乱を起こすように仕向け、ガストンの養育係だったオルナノ大佐も味方に引き入れた。王妃アンヌには、ガストンに子供が生まれて王位後継者となれば、アンヌの立場はますます弱くなると不安をあおり、結婚に反対させた。リシュリューはオルナノに元帥昇進を持ち掛け、自分の側に引き入れたつもりだったが、シュヴルーズ夫人はオルナノを再び自分側に引き寄せた。反乱は1626年5月4日に決行予定だったが、計画は頓挫しオルナノは逮捕されてしまった。
シュヴルーズ夫人は自分に惚れ込んでいるシャレー伯をそそのかして陰謀に引き込むことにした。シャレーは母親が買収した職、国王衣装係としてルイ13世の側近くに仕えていた。反乱者たちはオルナノを取り戻すためにリシュリューを誘拐する計画を立てたが、結局誘拐ではなくリシュリューを殺してしまう方に話が進んだ。しかも大胆にもルイ13世をも亡き者にして代わりにガストンを王位に据え、ガストンとアンヌを結婚させることにしたのだ。
計画はフォンテーヌブロー近郊に滞在するリシュリューをガストンの取り巻きたちが訪れ、夕食後に殺してしまうことにした。しかしシャレーは親類にこの計画を漏らしてしまい、リシュリューの知るところとなってしまった。リシュリューは来訪者たちをほったらかしにしてフォンテーヌブローのガストンの元に急いだ。そして翌朝、王弟の朝の儀式には、殺すはずだったリシュリューがベッドわきに立っていてガストンを驚かせた。着替えのシャツを手に持ったリシュリューは「殿下が私の館を訪れてくださるなら、あらかじめお知らせくだされば、次回はできうる限り最高のおもてなしをいたしますのに」とそっけなく言うとシャツを手渡してさっさと帰った。
リシュリューはこの陰謀にショックを受けた。日夜フランスのために身を粉にして働いているのに、死でもって報おうとは。彼はリムールにある屋敷に引きこもった。ルイ13世はリシュリューを失わないため、彼を慰め励ます手紙を何度も書き送った。6月に宮廷はパリからブロワへ移り、リシュリューは宮廷に戻った。
しかしシュヴルーズ夫人はあきらめなかった。相変わらずガストンを焚き付け、さらにはヴァルテリン問題でリシュリューを苦々しく思っていたスペイン、サヴォア、オランダ、イギリス勢を巻き込んで陰謀は進められた。シャレーは放免されたのにシュヴルーズ夫人に操られて計画の橋渡しに動いていた。リシュリューもガストンの側近を取り込み、シャレーには昇進を持ち掛けて懐柔を試みた。しかし事はとうとう露見。1626年7月8日シャレーは逮捕された。ガストンは側近に説得されてリシュリューと取引をした。自分は王位継承者であるため、命の心配がないガストンは全てをあっけらかんと話し、引き換えに協力金を受け取り、結婚を承諾し、オルレアンとシャルトルの公爵、ブロワ伯爵を受け取った。反乱で軍を提供するはずだった大貴族たちはガストンに翻意させようとしたが無駄だった。そして結局、逮捕されたシャレーがむごたらしく処刑された。シュヴルーズ夫人は追放され、当時神聖ローマ帝国領だったロレーヌへ行った(夫シュヴルーズ公はロレーヌ系出身)。残された王妃は国王と王太后とリシュリューの前で平民の囚人のような扱いで糾弾され、国王暗殺を糺されても開き直った。
この事件の後、リシュリューは武装した護衛を常備させることを国王から許可された。さらにこの機に乗じてリュイーヌ時代の国王の側近でリシュリューに反対する者たちを解雇して、自分の息のかかった者たちと入れ替えたのだった。
ラ・ロシェル攻囲戦はリシュリューの人生の中で重要な位置を占めるものだったし、後世の人々には「三銃士」の中の重要なエピソードの一つとしても知られている。が、実はラ・ロシェルはこれまで何度も攻囲されている。リシュリューが活躍し始める前に、ルイ13世とエペルノン公が攻囲しているし、宗教戦争時の1573年にも攻囲戦が行われた。 1598年に結ばれたナントの勅令により、宗教戦争は休戦状態に入り、ユグノーは信仰の自由を認められ、一部地域では礼拝が認められた。そしてラ・ロシェルやモントーバンでは自治も認められ、武装することも許された。フランス南部においてユグノー優位の地域が多く、大西洋岸地域やセヴェンヌ山脈周辺などでユグノーの数が多かった。リシュリューが最初に赴任したリュソンもユグノー優位地域であり、司教時代の彼は近隣のユグノーで指導的立場にある者たちと連絡を取り合い、宗教的な衝突が起きないように努めていた。
当時、貴族階級でユグノーの指導的立場にいたのはローアン公アンリだった。ローアン公の弟はスビーズ公バンジャマン、妻はシュリ公の娘、ユグノー一族である。弟のスビーズ公がレ島を占領し、王室の船を拿捕した。ヴァルテリン問題が生じて政府が対外戦争に姿勢を傾けつつあることに不満を持ち、また1622年にルイ13世とローアン公との間で結ばれたモンペリエ条約の履行が不十分でラ・ロシェル近郊のルイ要塞が王室によって強化されたことに不信を持ち、反旗を翻したのである。近隣のラ・ロシェルのユグノーはスビーズの行動を支持し、ローアン公はラングドック地方で武装した。イギリスは同じ新教徒としてユグノーを支援していたが、このころのイギリスはスペインとの対立に傾きつつあり、フランスとの同盟を必要と感じていたため、ユグノーに対してフランスとの講和を急がせた。オランダもスペインと対立中で、フランスに対して船を供給するなどの支援を行った。イギリスとオランダ両海軍の支援を受けて、フランス王室はモンモランシー公を指揮官として送り、スビーズ公をレ島から追い払った。スビーズ公はイギリスに逃亡、ユグノーとの対立は一時的に収まった。
しかし実はこの間にリシュリューはスペインとモンゾン条約を1626年3月に結んでいたのだった。これを知ったイギリスはだまされたと激怒。さらにチャールズ1世とアンリエット王妃夫妻の宗教的対立が大きくなり、イギリス宮廷で王妃のフランス人の側近たちが帰国させられるなど、外交問題となっていた。海上ではフランス船が拿捕されてイギリスに積み荷を没収される事件も起き、フランス宮廷では王妃とバッキンガムの恋愛疑惑事件が生じ、イギリスへの感情が悪化。加えて、フランスから追放されていた王妃の友人シュヴルーズ夫人が復讐のためにロレーヌの宮廷から遠隔操作でイギリスをそそのかし、フランスへの戦争をあおった。彼女に煽られた英国使節はロレーヌの他に、ローアン公やサヴォア公の元も訪れて巻き込みに成功した。
イギリスとの緊張の高まりの中で、リシュリューは船を建造し、ラ・ロシェル近郊を測量し、要塞化し、軍需品も集め、戦争の準備を着々と進めていた。一方で、ラ・ロシェルのユグノーに対しては、王に服従していれば何の心配もいらないと言い続けていた。ルイ13世とリシュリューは戦いの場となるであろう大西洋沿岸地方に向かったが、途上の1627年6月に国王ルイが高熱を出して瀕死の状態に陥り、ヴェルサイユへ戻って療養することになった。そして1627年7月20日、バッキンガム公に率いられた英国海軍がレ島に現れ、フランスとイギリスの間の戦争が起きた。バッキンガムはイギリスに逃亡していたスビーズ公を使節としてラ・ロシェルに送った。ラ・ロシェルは戦争に巻き込まれることを恐れて彼を中へ入れたくなかったが、スビーズ公はラ・ロシェル内の屋敷にいる母親ローアン公爵夫人に会いに来たふりをした。7月中にバッキンガム率いる英国海軍はレ島のサン・マルタン要塞近くに陣取った。
ラ・ロシェルは大西洋側ビスケー湾の入り江にあり、すぐ近くにレ島、少し離れてオレロン島がある。運河があり、街から海へ出られる港湾要塞都市である。戦争のためレ島にはサン・マルタン要塞が築かれた。またラ・ロシェル近郊にルイ要塞を含め多数の要塞が次々と作られた。当時の様子を伝える絵はこちら。(絵の左側真ん中にラ・ロシェルの城塞都市、それを取り囲むように要塞がいくつも建設され塀をめぐらされている。ラ・ロシェルの右上がルイ要塞。絵の右側はレ島の様子。島の中ほどにあるギザギザした形がサン・マルタン要塞。)イギリスとの戦争が起きた時に救援を頼んでいたスペインは来る気配がなく、レ島はトアラ元帥が守っており、リシュリューはまだラ・ロシェル近郊に到着していなかったが、彼に使わせるための船を探し、造船も急がせた。しかし今の状況ではレ島を失うのは時間の問題だった。ラ・ロシェルを要塞で囲み、本土から遮断して、陸上からの支援・救援を不可能にさせた。孤絶したラ・ロシェルに対し、レ島に駐留していた英軍が助けに来た。9月にとうとうラ・ロシェルからフランス軍に向けて大砲が打たれた。国王ルイはようやく回復し、9月末にラ・ロシェルへ到着。国王の存在はフランス軍の士気を上げた。10月にバッキンガムはレ島のフランス軍に対して急襲を仕掛けたが失敗、トアラ元帥指揮のレ島は何とか持ちこたえ、バッキンガムはラ・ロシェルに対して「英国王は決して見捨てない」と言い残してイギリスへ帰ってしまった。
一方リシュリューは11月に入ってラ・ロシェルへ到着。その前には領地リシュリューに立ち寄ったり、コンデ公に会ってラングドック地方で反乱を起こしたユグノーのローアン公と戦ってほしいと要請、コンデ公は応じた。またシュヴルーズ夫人にそそのかされた英国使節を拘束し、書類を押収。バッキンガム公、ロレーヌ公、サヴォア公の陰謀の尻尾をつかまえ、ロレーヌ公とサヴォア公は手を引いたが、ローアン公だけがラングドックで反抗し続けた。
さて到着したリシュリューはオレロン島へ行き、視察。攻略の案を練った。陸上からは封鎖を行っているが、海上封鎖も必要である。彼はパリの建築家クレマン・メトゾーとエンジニアのジャン・ティリオに諮り、ラ・ロシェルの湾を封鎖することにした。湾の浅瀬に建造物を置き、巨大防波堤のようなもので両側から閉じるようにするのである。11月末から計画は始まり、1628年2月初頭には防波堤が姿を現した。1月頃にスペインの名将アンブロジオ・スピノラがフランスを訪れた際にラ・ロシェルの状況を見て「ラ・ロシェルはすでに獲ったも同然だ」と言い、リシュリューを喜ばせた。
これら海上の大変な工事、また陸上の要塞建築は冬の過酷な気候の中でも行われた。工事に集められた人々、国中から集められた兵たちに支払う給金はカラの国庫からは到底まかなえず、リシュリューは個人的な信用で借金をし、衣服や給金を支給した。また兵たちの統制にも気を配り、規律違反は厳罰に処した。ジョゼフ神父も従軍したカプチン会の修道士たちと行動を共にし、リシュリューの外交関係の仕事をしていないときは、パトロールしたり兵たちの面倒を見た。
派手な戦闘が繰り広げられているわけではないが、戦いは地味で過酷だった。リシュリューにとっては、自分を嫌う貴族たちの陰謀に悩まされつつ、気難しい国王を上手く操作しなければ自分の地位も危うく、反抗的な王位継承者・王弟ガストンからも目を離せない。この大変な時期に、国王ルイは、地味な戦争に飽きてパリへヴェルサイユへ戻りたいと言い出した。リシュリューの舌打ちが聞こえるようだ。引き留めても言うことを聞かない国王はお気に入りの取り巻きを連れて戻ってしまった。傷心のリシュリューは友人のヴァレット枢機卿に心のうちを手紙に書き送っている。
1628年2月にリシュリューは降伏と開放を求めたが、ラ・ロシェルは拒否した。そこで彼は街へ入る水路の情報を得て、ここから中へ突入しようと試みた。3月に入って、水路をふさぐ柵を吹き飛ばすための爆弾を調達し、手はずを整え、自分は鎧を着こんで騎兵隊を率いて別の門の前で何時間も待機していたが、手違いで爆弾が届かず、作戦は失敗に終わった。翌日は砦の一つを攻めたが、これも失敗に終わり多くの死傷者を出した。3月下旬にはイギリスの船が再び現れ、湾の防波堤を突破、ラ・ロシェルに物資が届けられた。この突破はフランスにとって痛手だったが、イギリス側の書類を手に入れることができ、今後のイギリス側の作戦を知ることができたのは幸いだった。4月にバッキンガム公の再来が予定されていたのだ。
リシュリューの戦いはまだ続いていた。防波堤は突破され、改良の必要があった。完璧に封鎖できれば状況は好転するだろう。彼はバッソンピエール元帥とその麾下の将校の力を借りて、ある案を採用した。巨大な棒状のものをいくつもつなげた特殊な柵のようなものを作るのである。19世紀の画家アンリ・ド・ラ・モットの絵に描かれている特殊柵。絵はこちら。この突き出た巨大なトゲのようなものを海岸や海上に取り付けた。異様な巨大構造物が立ち並ぶ様は、十分に船を威嚇した。そしてラ・ロシェルの住民たちをも威嚇し、彼らの士気は下がった。補給は断たれ、街は飢えた。降伏を支持するものと、徹底抗戦するものとが対立した。市長やローアン公爵夫人らは抗戦を訴えた。リシュリューは街の有力者数人と定期的に連絡を取り合っていたようだ。リシュリューが無条件降伏を勧めたのに対し、ラ・ロシェルはイギリスの調停を希望したが、国内の宗教問題に他国の介入を許したくないリシュリューとは相いれなかった。
ラ・ロシェルはバッキンガム公が来るのを待ち望んでいた。9月に入ってフランスにバッキンガム公暗殺のニュースが入り、フランス軍では天の助けと考えられたが、ラ・ロシェルでは何ら変わりはないように見えた。しかし街はどんどん飢えが広がり、凄惨な状況になっていった。食べられるものは何でも食べた。食べられないものも食べた。耐えられなくなって街を出ようとした者たちも殺された。9月には毎日ラ・ロシェルでは300人が餓死した。
10月にようやく英国艦隊がやってきた。120隻の船が湾に配置され、対するフランス艦隊は小型船だった。英国船の砲撃は防波堤、海岸に設置された砲台も狙った。互いに激しい砲撃が2時間ほど続いた。英国船は火船も放ったが、あまり効果はなかったようだ。翌日も同じような戦闘が繰り広げられたが、次第に海が荒れ、戦いは終わった。イギリスからはリシュリューに使節が送られ、ラ・ロシェルの降伏条件について話し合いが行われたが、リシュリューは外国の介入を断り、英国艦隊はラ・ロシェルを激励すると帰って行った。このときの使節とは、以前にシュヴルーズ夫人にそそのかされて行動して拘束された使節である。数か月前にバスティーユ牢獄から出てイギリスにもどったばかりだったが、リシュリューは礼儀正しく接した。
このときの英国艦隊には、攻囲戦の初期にラ・ロシェルから出てイギリス国王に助けを求めに行った使節たちが乗って戻って来ていた。彼らは街の様子を見てこれ以上の戦いはもう無理だと悟り、リシュリューに恩赦を求め、リシュリューも信仰の自由を保証した。ただし街の中の人々も同じ条件に同意することを要求した。折しも、ラ・ロシェルの代表たちもリシュリューとの謁見を求めに来た。リシュリューは使節たちを待たせておいて、街の代表に会った。彼らはイギリス国王の調停やラ・ロシェルの自治と武装を今まで通り認めること、ローアン公爵夫人らに恩赦を与えることを提案してきたが、リシュリューは信仰の自由を認める以外は無条件降伏だと言い、イギリスから戻ったラ・ロシェルの使節団はこの条件で同意したと言った。簡単には信じない代表たちに、リシュリューはイギリスから戻った同胞を会わせた。そして何か月にも及んだ過酷な攻囲を生き延びた者同士、再会に涙を流した。
1628年10月28日ラ・ロシェル無条件降伏。1年にわたる包囲によってラ・ロシェルの人口はおよそ半分に減った。11月1日の万聖節で、リシュリューはラ・ロシェルでミサを行った。街に入ったリシュリューは悲惨な光景に心を痛めた。国王ルイも同様だった。戦勝パレードは行われたが、至ってシンプルで、いつもの派手さはなかった。勝った兵たちも厳しく統制された。こうしてラ・ロシェルは信仰の自由だけを保証され、自治権は剥奪され、武装解除、ラ・ロシェルの城砦は壊された。ラングドック地方でコンデ公がユグノーのローアン公とまだ戦っていたが、ラ・ロシェルの陥落によって国内のユグノーの反抗はほぼ完全に断ち切られ、中央集権化と絶対王政の確立に一歩前進した。
マントヴァ継承戦争の背景と現状
マントヴァ公国はヴェネツィアとミラノ公国の間に、モンフェラート公国はミラノ公国とサヴォア公国の間に位置していた。歴史的に見て、両公国とも神聖ローマ皇帝によって継承が承認されていた。
両公国を所有していたゴンザーガ家のヴィンチェンツィオ2世は、1627年12月26日に跡継ぎがいないまま亡くなった。このため彼の父親ヴィンチェンツィオ1世の従弟にあたるヌヴェール公シャルルが直近の後継者として相続することになった。
モンフェラートの首都カザーレはジェノヴァからミラノへの道の途中にあった。ジェノヴァもミラノもハプスブ ルク帝国の勢力圏内にあり、ここに親フランスの公国が生じることを避けたい皇帝フェルディナント2世は、ヌヴェール公の相続に待ったをかけた。フランス側としては、北イタリアでハプスブルク家の影響力がこれ以上強まるのを何とか避けたい。ジェノヴァ、ミラノ、モンフェラートに接しているサヴォアがハプスブルク勢力圏に取り込まれるのを避けたい。
スペインのハプスブルク家は、ミラノ総督にカザーレに兵を差し向けるよう要請し、サヴォア公にはスペインとの同盟を持ち掛けた。ヴァルテリン問題の時に、フランスと同盟したサヴォアだが、ラ・ロシェルを巡るイギリスとの対立の時、シュヴルーズ夫人が計画した反リシュリューの陰謀に加わっていて、今は流動的な立場だった。
さらにルイ13世の弟ガストンが、このタイミングでヌヴェール公の娘マリー・ド・ゴンザーグに恋をした。彼は勝手にマリーに求婚し、娘の父親ヌヴェール公としては、これはマントヴァでの自分の立場をフランスが擁護してくれる根拠となると期待した。しかし当然ルイ13世と母親マリ・ド・メディシスは待ったをかけた。特に母親は自分の摂政時代に反抗的だったヌヴェールを嫌っていたので結婚に大反対。さらにマントヴァでヌヴェール公を助けることにも反対だった。
マントヴァの現状は上述のごとく、さらにフランス南部では、まだユグノーの残党が、リシュリューに派遣されたコンデ公と戦っていた。ラ・ロシェルを陥落させた今、さてリシュリューは次に何をする。
リシュリュー1回目のイタリア侵攻1628年12月26日に国王と王太后、政府主要メンバーが集まって、今後の方針について会議が行われた。リシュリューの主張は、イタリア侵攻つまりヌヴェール公の援護だ。カザーレを包囲しているスペイン軍の士気が落ちているという報告があり、またスペイン王と従兄弟関係の皇帝は、スペインの救援よりスウェーデンとの対戦に忙しい現状、そしてヌヴェール公はフランスの主要な貴族でありその援助は国として必要だとリシュリューは説いた。
翌年1629年2月、ルイ13世とリシュリューは冬のアルプス遠征を行った。寒さの中、雪崩の危険にもさらされながら、大砲やロープを引っ張り山道をゆくフランス軍。モンフェラートへ行くために、サヴォアの領土を横切らなければならない。リシュリューはサヴォア公と交渉していたが、サヴォアはモンフェラートを得るためにスペインと同盟中だった。サヴォアのスーサの街は城壁に囲まれた城塞都市で、フランス軍はこのスーサを見下ろす山中にいた。サヴォア公はフランス軍の背後から急襲を仕掛けるつもりだったが、リシュリューはその計画を見破り、3月にスーサの街に攻め入った。サヴォア公親子は難を逃れたが、この敗北でサヴォアはフランスと3月11日スーサ条約を結び、フランスと同盟することになった。ひとまずマントヴァとモンフェラートでのヌヴェール公の安全を確保して、国王ルイとリシュリューはひきつれた軍勢をラングドックに移し、いまだに抵抗を続けていたユグノー勢力の鎮圧に取り掛かった。
1629年5月ルイ13世はリヨンの南にあるユグノー都市プリヴァを包囲した。リシュリューはスーサでのフランス軍編成業務を終えてから、包囲戦のさなかに合流した。その後まもなくプリヴァでは国王軍が町を占領している間に爆発が起き、混乱が生じてプリヴァの街に恐ろしい略奪と殺戮が行われた。後年リシュリューはこれは意図的ではなかったと言っているが、大惨事の原因はわかっていない。プリヴァが降伏したので、国王とリシュリューはさらに南西のアレスを包囲、6月17日に街は降伏した。これによりフランス中のユグノーの代表が平和条約について審議するために集まり、6月28日アレス条約が結ばれた。これは王とユグノーとの和解であり、内容は3つの事項の確認である。すなわち「信仰の自由を認める。改宗は強制しない。ユグノー都市の城塞はすべて壊す」である。さらにモンペリエとモントーバンでの小さい反乱を国王軍が抑えると、10年近くユグノー指導者として戦ってきたローアン公はヴェネツィアへ亡命し、ここでリシュリューは懸案であった国内の宗教戦争を終えた。
パリへ戻るリシュリューアレスからモンペリエ、モントーバンへ向かう途中、ニームに単身立ち寄ったリシュリューは、このユグノー都市で一人で街を歩き回り、市民たちと気軽に交流(!)した。モントーバンでも同じようなことをして、市民たちに盛大な入城を勧められたが、国王の手前それを断り、代わりに護衛を従えて徒歩で入城し、街の役人たちと楽しい会話を交わした。リシュリューの上品な物腰は人々を魅了した。
一方パリでは不機嫌な王太后が待ち構えていた。リシュリューの帰還の挨拶に冷淡な態度をとる王太后。王太后の怒りに対し、リシュリューはお得意の手を使った、つまり辞職を願い出たが、しかし今回は国王ルイの執り成しで和解し、国王はリシュリューに主席国務大臣(le principal ministre d'État de Louis XIII)という新しい称号を与えた。
せっかくパリへ戻ったのに、皇帝の軍が北イタリアに向かっているとの知らせが間もなく入ってきた。サヴォア公とは同盟中だが、彼はいつ寝返るかわからない。ヌヴェール公を助けるために再び北イタリアへの進軍が必要になった。そして今回は後継者のいない国王の身を冬山の危険にさらすことを避け、またお騒がせ王弟ガストンがまだ国外のロレーヌにいるので、外交問題の危機に発展しないか目を光らせておく必要があることから、国王が国内に留まり、リシュリューが国王代理相当の大きな権限を与えられてフランス軍を率いて行った。彼としては単身フランスを留守にすることで、自分の立場が揺るがされる恐れを抱いていたのだが・・・。
1629年12月29日にリシュリューはパリを出発し、翌年1630年1月半ばまでにリヨンに入った。そこで冬のアルプス越えと、カザーレへの到着、紛争解決への和解を探るための準備を始めたが、サヴォア公は相変わらず流動的な態度をとり、さらに教皇ウルバヌス8世の介入が事態をややこしくした。このとき派遣されていた教皇特使がジュリオ・マザリーニ、のちのマザラン枢機卿である。ハプスブルク家と手を結ぼうとしたサヴォア公に対し、リシュリューは軍を動かし、3月にサヴォアのピネローロ要塞を占領した。さらに彼はこの際に、たとえフランス財政が厳しい状態にあっても、戦争を継続させサヴォアを攻めるように国王を説得した。
リシュリューと同じく体は弱いが武闘派気質の国王ルイは、反対する母親の顔色をうかがいながらも、5月にリシュリューと合流してサヴォア攻略へ出向いて行った。しかしルイの体調は良いとは言えず、7月には再びリヨンへ戻った。リシュリューは大変な状況にあった。ルイが戻った1週間ほど前に、マントヴァがハプスブルク家に占領されたのだ。折しもアルプス周辺でペストが蔓延し、フランス国内では戦争と重税、伝染病に対する不満が爆発しそうになっていた。さらに悪いことに国王ルイは9月、腸炎から重病に陥り、聖体拝領を受けて死の準備をした。国王が亡くなれば、リシュリューの首は危うい。瀕死の国王をリヨンに見舞ったリシュリューの周囲では、王太后をはじめとする反リシュリュー勢力がリシュリュー逮捕の準備を行っていた。ルイはリシュリューの身を案じ、自分に万一のことがあれば、リシュリューを無事に逃がすための手筈も整えていた。しかし神はリシュリューに味方した。ルイの容体は危機を脱し、リシュリューの身もひとまず安全だった。
しかし10月、ドイツに派遣していたジョゼフ神父とブリュラールが、ハプスブルク家のヨーロッパ支配に対抗するリシュリューの苦労を泡に帰するようなラティスボン条約を結んだことを知り、リシュリューは仰天した。マントヴァでのヌヴェール公の領土は保証される代わりに、フランスは皇帝フェルディナンドの敵に対して、直接・間接問わず援助を行わないという条件が付いていたのだ。スウェーデンおよびプロテスタント諸国と同盟を結び、反ハプスブルク政策を推し進めてきたリシュリューにとって、このような条件はのむことができない。さらに悪いことに、この条約の知らせは同時に、イタリア進軍中のフランスの司令官たちにも送られた。今少し頑張ればカザーレで優位に立てる可能性がある大事な時に、司令官たちが条約締結を知って群を止めてはこれまでの努力が元も子もない。リシュリューは条約を破棄した。このことで王太后とは最悪の関係となり、リシュリューの立場は危うくなった。ところが、イタリア進軍中のションベール元帥は、この条約締結はリシュリューの意図に反すると見抜いて、独自にに進軍を続け、とうとう10月26日、カザーレ近郊で皇帝フェルディナンドの軍と対峙した。
このとき両軍の調停に動いたのが、教皇特使ジュリオ・マザリーニである。彼は粘り強い交渉力を発揮して和平を整え、銃殺されるかもしれない危険を冒して両軍の間を馬で駆け抜け、和平合意が成立したことを両軍に知らせた。和平はフランスに有利な内容で合意が行われた。カザーレをマントヴァ公の息子マイエンヌ公が治めることを条件に、スペイン軍はモンフェラートから撤退した。さらに占領したサヴォアも維持することができ、フランスは勝利した。
フランス史上、有名な出来事の一つである「欺かれた者たちの日」。リシュリュー自身は「いまだかつてない奇妙な革命」と後に振返っている。リシュリュー失脚のニュースに喜んだ人々は、翌日一転して自分たちが敗北したことを知った。ルイ13世はリシュリュー枢機卿を選ぶことで、今後のフランス史の方向を決定したのだ。
北イタリアでの和平が成立すると、宮廷はリヨンからパリへ戻った。王太后は息子ルイ13世が病気で臥せっていた間に、息子からリシュリューの罷免について何らかの約束を取り付けたようだ。パリへ戻る道中でも母と息子は二人で過ごすことが多く、王太后はこの件に関して言いつのっていたと思われる。リシュリュー自身はリヨンにいるときから王太后の周辺で自分に対する敵意を感じていたので、またもやお得意の手、辞職を願い出た。しかし国王は受理しなかった。リシュリューは王太后に手紙を書き、釈明して誤解を解いてもらおうとしたが、この手紙は無視された。
1630年11月10日は王太后のリュクサンブール宮殿で諮問会議が行われ、リシュリューは王太后のご機嫌取りに、王太后の寵臣マリヤックをイタリアに派遣する軍の総司令官に任命するよう提案した。しかしこの会議後に王太后はリシュリューを自分の側近としてこれ以上扱わないことを宣言し、リシュリューが保有していた地位をすべて解任した。王太后に仕えていた姪のコンバレ夫人マドレーヌも解任された。
翌11日、国王は王太后とリシュリューとの三人で話し合いをするつもりだった。国王は王太后がリシュリューを解任したとしても、国政から遠ざけるつもりはなかった。話し合いはリュクサンブール宮殿で行われる予定で、リシュリューは自分が与えられていた住居のプチリュクサンブールから徒歩で向かった。しかし王太后の書斎前には誰も立っておらず、扉の鍵はかかっていた。王太后の侍女の一人がリシュリューに別の道を指し示してくれた。リシュリューの息のかかった侍女だったのだろうが、どのみち彼はこの宮殿の建設にかかわっており、おそらくどこにどんな通路があるのかすべて知っていただろう。リシュリューは王太后の書斎へ通じるプライベートな別通路を行き、鍵のかかっていなかったドアからいきなり入った。
激しい口調でやりとりしているようだった王太后と国王は、枢機卿が突然現れたのであっけにとられた。
「私についてのお話でしょうか、陛下」
王太后は激しくリシュリューを罵り始めた。恩知らず、裏切り者、偽善者、詐欺師! 国王は母親をなだめようとしたが、無理だった。リシュリューは跪いて、フランスのために身を粉にして働いてきたと言ったが、王太后のものすごい剣幕は衰えることなく、リシュリューを侮蔑し続けた。彼は泣いて嗚咽を漏らしながら許しを請い、王太后のドレスの裾にキスしたが、王太后は背を向けた。「リシュリューは泣きたいときに泣く」と彼女はかつて言っていた。リシュリューの涙を信じていないのだ。国王は黙ったまま。リシュリューは部屋を出ていくしかなった。そのあとで国王が帰るとき、階段の下でリシュリューが立って待っていたが、国王はこれを無視して出て行った。リシュリューはもう自分の家に戻るしかなかった。王太后は勝ったと思ったのだろう。この事態はすぐにパリ中に広まり、各国の大使たちは「国王ルイ13世は首席大臣リシュリュー枢機卿を見限った」と手紙を書き送った。
家に戻ったリシュリューは昼食後に馬車でパリを出るつもりだった。ここに留まれば身の安全はない。彼はル・アーヴルへ逃げるつもりだった。北西部の港湾都市ル・アーヴルは、海洋委員会と組織の長官であるリシュリューにとっては自分の管理下にある土地で、当面の身の安全が保証される場所だ。しかし準備をしているリシュリューのもとに、国王からヴェルサイユへ来るように伝言が届いた。ヴェルサイユの館は当時はまだ質素で、狩猟好きのルイ13世が隠れ家として使っていた。逮捕されるのかもしれない、罠かもしれないと訝っているときに、友人のラ・ヴァレット枢機卿がやってきた。リシュリューが失脚したと噂されているさなかに、あえて訪ねてきて支援を申し出た数少ない人物だ。リシュリューが国王からのメッセージを見せ、これを無視しようかと思うと相談すると、ラ・ヴァレットはこれを諫めた。自分からゲームを降りるのは負けと同じだ。命令に従い、国王に会うべきだ。
かくしてリシュリューはヴェルサイユの国王のところへ行った。国王は自分の真上の部屋をリシュリューに与え、二人はその夜4時間ほど暖炉の前で話し合った。国王は母親との不和に心を痛めたことを打ち明けた。しかし母親よりも、国王として国家に対して義務があり、リシュリューの手腕を必要としていると言った。そしてフランスの今後について、二人の間で次の手が話し合われた。
一方、リュクサンブール宮殿では王太后がリシュリューに勝ったと聞いて廷臣たちが続々と集まってきた。めったに姿を見せないエペルノン公もやって来た。アンヌ・ドートリシュからはお祝いのメッセージが届いた。王太后はその晩、勝利に酔いしれていた。リシュリューがヴェルサイユへ行ったとの情報を得て、王太后にもヴェルサイユの国王に合流した方がいいと助言する者もあったが、王太后は耳を貸さなかった。翌日12日、国王は王太后の寵臣でリシュリューに対する策謀の主要人物であるマリヤック兄弟を逮捕した。王太后にはリシュリューの留任を報告した。リシュリューの勝利である。しかしそれでも王太后は、リシュリューとの和解をかたくなに拒んだ。