1585年から1608年(もう少し詳しく)

リシュリューの生まれた1585年は、アンリ3世の治世であり、サン・バルテルミの虐殺事件から13年後である。この頃はカトリックの勢力を代表するギーズ公アンリとユグノー勢力を代表するナヴァール王アンリ、そして国王のアンリ3世の対立が生じ、3アンリの戦いと呼ばれるようになってきた。アルマンらの父親フランソワはアンリ3世に仕えており、気に入られていたようだ。1584年にアンリ3世からリュソン司教区の聖職禄をリシュリュー家が継ぐことを認められた。grand provostという職についていたフランソワは、侍従兼衛兵隊長のような仕事をしていた。アンリ3世が暗殺されたときも側にいて、犯人確保をした。しかし主君が殺されてしまった今、次は誰に仕えたら良いものか。一族の者たちはカトリック同盟のギーズ公アンリに仕えるよう勧めたが、フランソワはナヴァール王アンリに仕えた。ナヴァール王アンリがアンリ4世として即位した後のユグノーとの戦争で、フランソワは功績をあげ、アンリ4世の衛兵隊長となり信頼も得た。しかし1590年に熱病にかかり亡くなった。

ところでリシュリュー家の歴史はというと、分かっていることは15世紀にフランソワ・デュ・プレシという人物が母方の伯父からリシュリュー(地名)の領地を相続し、それから代々デュ・プレシ・ド・リシュリューを名乗った。このフランソワの曾孫のフランソワが枢機卿リシュリューの父親である。父フランソワは有名な法律家であったフランソワ・ド・ラ・ポルトの娘、シュザンヌと結婚し、3男2女をもうけた。生まれた順に、長女フランソワーズ、長男アンリ、次男アルフォンス・ルイ、三男アルマン・ジャン、次女ニコルである。長女のフランソワーズはアルマンより7歳上で、後年アルマンと同居し彼の最後を看取ったお気に入りの姪マリー・マドレーヌの母である。長男のアンリはアルマンより5つ年上で、父亡き後はリシュリュー家の当主として宮廷に出仕し、アンリ4世の寵を得た。次男のアルフォンス・ルイは3歳上のおとなしい性格で、リュソンの司教となることが期待されていたが、カルトジオ会の修道士となった。しかし彼もいつまでも修道院に籠っていられず、弟が出世するに従って引き出されて政治的な役割を振り当てられた。エクサン・プロヴァンスとリヨンの大司教となり、1629年には兄弟で枢機卿になってはならないとの制約を免除されて枢機卿となった。ほかにソルボンヌ大学の校長やサン・テスプリ騎士団長なども歴任した。妹のニコルは2歳年下でブレゼ元帥に嫁ぎ、生まれた娘は王族のコンデ公と結婚させられた。

アルマン・ジャンは1585年9月9日にパリで生まれたとされる。領地のリシュリュー城で生まれたという説も根強くあったが、パリのサン・トゥスタッシュ教会で1586年5月5日に洗礼を受けた記録が残っている。また彼が何度か手紙などで自分をパリジャンだと称していたのもパリ生まれの根拠となっている。代父母はArmand de Biron元帥、Jean d'Aumont元帥、父方の祖母フランソワーズ・ド・ラ・ロシュシュアールである。Biron元帥は16世紀半ばの宗教戦争で活躍した軍人で、1572年のラ・ロシェル包囲戦にも参加した。アルマンの父フランソワと同様に、アンリ3世が暗殺された後、ナヴァール王アンリを支持した。d'Aumont元帥はフランソワとも年が近く、同様にアンリ3世に仕え、その後ナヴァール王アンリを支持した。祖母のフランソワーズは名門貴族ロシュシュアール家出身。

母シュザンヌの実家が裕福だったとはいえ、父フランソワは借金を残して亡くなり、子供を5人抱えた未亡人はパリの屋敷を売って、領地リシュリューの城へ戻った。リュソン司教区の収入が一家の頼りの収入源であり、アルマンの大叔父のジャック・デュ・プレシ司教が亡くなった後は、デュ・プレシ家の子供が成長して聖別を受けるまで当面のリュソン司教にはフランソワ・イヴェールが代理で就任した。しかし聖堂参事会は司教区の収入の個人的な使用に反対し、イヴェールの就任を認めず、訴訟を起こすと脅してきた。母の実家は弁護士である。シュザンヌは賢く実務的な手腕に長けた人だったらしく、借金を返し、訴訟にも対処し、お金を工面して子供たちにパリで教育を受けさせた。こうして手を尽くし、ソルボンヌに通っていた次男のアルフォンス・ルイをまだ資格も持っていないうちから何とか司教として立てた。それにもかかわらずアルフォンスは司教になることを拒否した。となれば残るは三男のアルマン・ジャンしかいない。こうしてアルマンはプリュビネルのアカデミーを辞めて、次兄の代わりに司教を目指すことになった。

ナヴァール学寮で基礎課程を学んだだけのアルマンは、ソルボンヌに入った。長兄のアンリがこのころには宮廷で働きアンリ4世の寵臣となっていたので、規定年齢には達していないが、アルマンの司教内定を認めるよう王はローマ教皇へ手紙を書いてくれた。助祭の叙階を受け、神学課程を修了したものの、ローマから司教叙階の便りが遅いことに業を煮やしたアルマンは、自らローマへ赴き1607年4月17日にジヴリ枢機卿によって叙階された。帰国したアルマンは大学での勉強を再開し、22歳で大学神学部の教授会メンバーになった。そしてしばらくパリに滞在し、説教師として活動し、人脈を広げた。すでに政治的な野心を持っていたに違いない。デュ・ペロン枢機卿というアンリ3世とアンリ4世のもとで活躍した政治家が、おそらく彼のロールモデルであっただろう。この時代の高位聖職者はパリに滞在し、自分の教区に居住することは珍しいことであったにもかかわらず、アルマンは翌年パリを去って自分の教区リュソンへ行った。