1609年から1614年(もう少し詳しく)
リュソンは大西洋近くの沼地・湿地帯にあり、自然の水路からできた運河が町を通っていた。人口3000人ほどの町は宗教戦争時に大きな被害があり、荒廃したままでまだ多くの建物や道路が崩れたまま放置されていた。町は貧しく、聖職者たちの教育もきちんとなされていなかった。宗教的な対立もまだ続いており、リュソンの周囲はユグノーの港町ラ・ロシェルがあり、ポワトゥ地方は財務卿などを務めた大物新教徒貴族シュリ公が総督を務めるなどユグノーの勢力も強く、教区内のユグノーを改宗させることも必要とされていた。
アルマンは1608年12月21日にリュソンに赴き、これから16年間をリュソン司教として活動するのである。赴任した頃は、リシュリュー家と聖堂参事会との間に財政的なもめごとがあったことから、わだかまりがあった。そのことを意識した新任司教アルマンの赴任挨拶(演説)の資料が残っている。また赴任直後の彼のクリスマス礼拝の説教も資料が残っている。このほかに彼がリュソン滞在時に書いたであろう「キリスト者の教え」が残存する宗教的著述の全てである。(磯見辰典. 司教としてのリシュリュー:シャラントンの牧師に対する反駁を中心に. 上智史學, 1992, 37, pp.289-312) 彼はトレント公会議からの改革を支持し、教区内の聖職者の腐敗を正し、再教育を行った。著書「キリスト者の教え」は一般信者たちへの教理の解説書であり、教区の司祭たちにはこれを指導用として教えた。
彼は大聖堂を修復し、運河を整備し、町の再建を指示した。司教としての収入から家族に送金する必要もあったため、資金は足りなかった。劣悪な住環境についてこぼす彼の手紙が残されている。リュソンで一冬越した1609年の春に書かれたもので、宛先は母方の知人でパリの弁護士の未亡人ブールジュ夫人である。「私はフランスで最もみすぼらしい教区を持つ司教です」「すべてが完全に廃墟と化しているので修復には多大な労力を必要とします」「散歩する庭もない」「家具をそろえる必要があります。タペストリーも欲しいです」「若い使用人を雇いました」等々。自分をよく見せようと身を飾りたいが、資金が足りなくて難儀している様子もうかがえる。しかしながら彼は信者のことを考えるよき司教だった。教区全ての教会を訪れて説教し、信者の財政的な困難には税金の軽減を願ってシュリ公に手紙を書いてやったりもした。このころの実務的な経験は後のキャリアに生かされているだろう。
また近隣のユグノーとの交渉事から学んだことはおそらく、厳しく改宗をせまるよりも信教を認めて友好的な関係を保つ方がよい、ということだろう。のちにラ・ロシェルを厳しく攻略した時も、降伏した相手には寛容だった。そして同じカトリックでも当時は、ガリカン派など主義主張の違う派が対立していたが、彼はどれとも一定の距離を置いた。
おそらくパリで知り合い、この頃活発に交流していた同年代の人々がいる。アンリ・ルイ・ド・ラ・ロシュポゼはポワトゥ地方の貴族でポワチエ司教となった。のちにルーダンの憑依事件に関わり、グランディエ司祭を処刑した。ジャン・デュヴェルジェ・ドーランヌはフランスにジャンセニズムを導入した人物で、後にサン・シラン修道院長となり、宰相となったリシュリューと対立しヴァンセンヌに投獄された。セバスチャン・ブーティリエはリシュリュー家と家族ぐるみの付き合いのあったブーティリエ家の兄弟の2番目で、リュソンの修道院長やマリ・ド・メディシスの司祭を務めた。この3人とアルマンは時々ポワチエで会ったり、密に連絡を取り合っていた。そのほか特記したいのは、のちに「灰色の猊下」と呼ばれるジョゼフ神父との出会いである。彼は名家の出身で、当時できて間もないコレージュ・ド・ロワイヤル(現コレージュ・ド・フランス)で学んだあと宮廷に出仕し、アミアンの包囲戦に参加。その後イギリスへ渡り、エリザベス1世の宮廷に滞在した。帰国してからは母親の反対を押してカプチン会の修道士となり、説教師となった。修道院に籠らず、世俗の聖職者の補助として信仰のために生きるジョゼフ神父は、宮廷生活で身に着けた話術や人脈、修道会のネットワークを利用した情報網を武器に政治的に精力的に活動していた。二人は主義主張が必ずしも一致していたわけではないが互いを理解しあい、ジョゼフ神父はフランスと教会のためにはリシュリューが権力を握ることが必要だと考えたのである。
1510年にアンリ4世が暗殺されてから、アルマンは時々様子を見にパリを訪れた。司教として宮廷を訪れることが許されたのである。アルマンはブーティリエのところで王太后の側近バルバンと知り合い、バルバンからコンチーニに紹介された。度々パリを訪れて情報収集したり人脈を広げたりすることは政治活動として必要だった。1612年には財政状態が良くなり、アルマンはようやくパリにも住居を構えることができた。そして同じ年、パリの教会でアルマンはマリ・ド・メディシスの前で説教する機会を得たのだった。
ルイ13世が即位し王太后マリ・ド・メディシスが摂政となっていたが、しばらく国政はアンリ4世時代からの古い大臣たちに任されていた。しかし貴族たちが自分たちの要求を主張し、王室とその政治に反抗的になっていき、争いが起きかねない事態になってきた。1612年に王太后はルイ13世とスペインの王女アナ、スペインの王太子フェリペとルイ13世の妹エリザベートとの二重結婚を画策したが、このカトリック国同士の強いつながりに対しユグノーの貴族たちが反発した。ユグノーの指導者的な大貴族ロアン公がサン・ジャン・ダンジュリーの領主になると、近隣のリュソン司教であるアルマンは地元のユグノーの指導者とのつながりを利用して秩序を維持し、中央政府には協力を求めるなど、警戒と積極的な対策を行った。
そしてこの頃には誰につくか見極めたアルマンはコンチーニに対して協力を申し出る手紙を書いた。王太后と貴族との争いは交渉によって回避され、貴族たちは自分の要求(職、金銭)を受け入れてもらったが、ほかに三部会の招集も要求した。この三部会によって貴族たちはさらに自分たちの利益を図ろうとの思惑を持っていたが、王太后側で三部会代表の人選を管理することに成功し、代議員は多くが王室支持派となった。そんな中、アルマンは手を尽くしてポワトゥ地方の聖職者代表の地位を手に入れ、パリで1614年10月に始まった三部会に乗り込んだのである。