1615年から1622年(もう少し詳しく)

数か月続いた三部会は1615年2月23日に最終日を迎え、各身分の代表者がそれぞれ最後のスピーチをしたが、このとき聖職者の代表者がリュソン司教アルマンだった。彼のスピーチは内容的には特別際立ったものではなく、また後の彼の政策の傾向とも異なったものだったが、話の組み立て方、話し方が優れていて、すばらしい効果を生み出した。彼は出席者たちに強い印象を与え、王太后摂政マリ・ド・メディシスは彼に目を付けた。

フランス王室のスペインとの二重結婚は、三部会を開くことになった抗争の原因であったにも関わらず、王太后はこの結婚話を強行した。1615年の夏にスペインから王の妹がスペインへ向かい、スペインからはスペイン王の姉がフランスへ向かった。この結婚のために宮廷はパリから大移動し、ボルドーへ向かっていた。しかしフランス王の妹エリザベートは途中で天然痘に罹り、ポワティエで足止めとなった。このとき王太后はリュソン司教にエリザベートの世話を任せ、回復したのちに王妹はボルドーの宮廷へ合流した。そしてリュソン司教は新しくフランス王妃となったアンヌ・ドートリシュ付きの司祭となった。

この結婚に不満を持つコンデ公ら大貴族たちは再び王室に対して反乱を起こし、ユグノーやパリ高等法院を味方につけた。摂政マリ・ド・メディシスはアンリ4世時代からの古い側近たちの助言に従って1616年5月ルーダン条約を結び、コンデ公の国務会議への参加を認めた。譲歩することで古い側近たちは勢力を失い、この機に乗じてコンチーニは自分のお気に入りを国務会議へ送り込むことに成功した。バルバンが財務卿に、リュソン司教は顧問として国務会議入りした。 国務会議のメンバーになったコンデ公だがサボタージュしてパリへ一向に来ないため、リュソン司教が派遣された。彼は外交的な手腕を発揮してコンデ公を説得し、ようやくコンデ公はパリへ来た。 しかしながらコンチーニに対する不満を隠そうとせず扇動するようなコンデ公の不穏な動きに、王太后側はコンデ公を逮捕した。この逮捕はおそらくリュソン司教が一枚かんでいると思われているが確証はない。この逮捕には反乱に加わっていない貴族たちも反感を持った。コンデの逮捕に反対するヌヴェール公の説得に再びリュソン司教が派遣されたが、今回はうまくいかなかった。

リュソン司教には外務大臣のポストが与えられ、すぐ後に彼は軍務大臣のポストも抱えた。しかしながら軍は十分な訓練を受けていない上に、兵站に関することは軽視されていた。予算も十分ではなく、前任者の嫌がらせや外交書類などの紛失もあった。首席大臣であるコンチーニの采配が全くなっていないことに文句を言う、リュソン司教のバルバン宛の手紙が残っている。 新しい外務大臣であるリュソン司教は、北イタリアの領土問題にパリで和平交渉を行わせようとの目論見を抱いており、結果的にはうまくいかなかったものの、外務大臣としてヨーロッパ各地に親書を送った。そんな中、1617年に大貴族たちがコンチーニに対する不満から反乱を起こし、不満はパリ市民にも広がっていた。国王の寵臣リュイーヌは成年後も主体的に国務に関われない国王をそそのかし、コンチーニを除こうと策を巡らせた。

ルイとリュイーヌにより1617年4月にコンチーニは殺された。コンチーニ派のリュソン司教はその日、ソルボンヌの要人を訪ねていたときに知らせを聞いた。しかし彼は最初、コンチーニの暗殺を歓迎するような感想をもらした。彼はおそらく既にコンチーニ陣営の危険を感じ取り、リュイーヌ陣営に接触を試みていたのではないかと推測される。翌日の諮問会議への出席許可をもらっていたらしい。しかしながら会議ではリュイーヌにほとんど無視され、他の閣僚からはこれ以上の会議の出席を断られた。不安を覚えた彼は教皇特使に会いに行く途中、コンチーニの遺体をむごたらしく引き回していた狂乱状態のパリ市民に馬車を囲まれた。命の危険を感じた彼は「国王万歳」を叫んで何とか切り抜けた。

新たに政権を握った国王とリュイーヌ陣営と、前政権を握っていた王太后との間の調停役にリュソン司教が選ばれた。王太后は年金や称号肩書、ノルマンディの支配権を保ったままブロワの城へ移った。その王太后の宮廷でリュソン司教は諮問会議や宮廷管理のトップに就いた。リュソン司教はブロワでのことを国王の諮問会議にまめに報告し国王側にすりよっていたものの、王太后の側近たちで不穏な言動をするものたちが引き起こした疑惑のとばっちりで王太后から引き離され、1617年6月にリュソンへ遠ざけられ、結局リュソンに近いクーセーの修道院に移った。しかしさらに彼には王の命令で1618年4月アヴィニョン行きの命令が出た。兄のアンリ、義兄のポンクーレもである。この頃のアルマンは先のことなど考えられないほど絶望のどん底にいた。リュソンの聖堂参事会員に自分が死んだ後の指示などを書き送っている。

その頃ブロワでは、リュイーヌ政権に反発する王太后の支持者たちが王太后の元に集まった。ロープを使って王太后を上階から降ろすという映画のワンシーンのような方法を使って脱出した王太后と、息子ルイの対立は避けられない様相を呈してきた。戦争を回避するためにリュソン司教が呼び出され、1619年3月にアングレームの王太后のもとに合流し、調停役として働くこととなった。翌4月アングレーム条約が結ばれ、リュソン司教の評判は上がったが、同時に悪口・挑発の類も増え、テミーヌ侯爵の侮辱に対して決闘を行った兄のアンリ・ド・リシュリューが命を落とす事件が生じた。宮廷で兄弟互いに協力することもできなくなり、アンリには跡継ぎがいなかったため、僧職の弟二人アルフォンスとアルマンが残され、男系の後継者がいなくなった。リシュリュー家の家督はアルマンが継ぐことになったが、何より愛する兄をなくした精神的なショックは大きかった。そんな中でも交渉は淡々と続けられ、王太后は9月にアングレームを去ってロワール地方へ行った。

戦争は回避されたもののアングレーム条約では、王太后をパリの宮廷に戻し影響力を取り戻すということには至らなかった。宮廷内の有力派閥は依然として王太后を激しく敵視して、王太后が息子と会う際には、リュイーヌかその兄弟の誰かが必ず立ち会い、王妃の影響力が回復するのを阻止した。王はパリに戻り、マリ・ド・メディシスはアンジェへ行った。完全な和解は相変わらず実現せず、王太后の支持者たちは雑に扱われた。しかし最も大きな打撃は、コンデの釈放と復権であった。これは事実上、コンデの投獄に関わったすべての人々--王太后も含む--を非難するものであった。リシュリューは、王太后にパリに行き、王に対する母親の権威が徐々に回復するのを信じるよう勧めた。しかし彼女は過激な信奉者たちの意見に耳を傾け、リュイーヌを国家の敵として罷免するよう要求した。コンデを釈放したのは、コンデが貴族たちと共に王太后の支持勢力に対抗する政党を結成するためであった。

王太后マリ・ド・メディシスの周りに再び反リュイーヌの大貴族たちが集まり、反乱の気配が漂いだした。1620年3月マイエンヌ公が王太后に合流。さらにソワソン伯夫人が合流し、王太后と国王の対決が色濃くなってきたが、リシュリューは平和的な解決を望み、内乱の回避に奔走した。しかしリシュリュー自身に対する反発もあり、王太后の周囲は混乱していて、リュイーヌとコンデのいる国王側が有利だった。結局、軍を伴って両者が対峙したものの、国王軍が圧倒的に強く、混乱している王太后の陣営は次々と敗走した。再び国王と和平を結ぶためにリシュリューが調停役として働き、8月10日にアンジェの和議が結ばれた。 リシュリューの手腕で王太后は元のようにパリの宮廷に戻り、褒賞として王太后はリシュリューを枢機卿にしようと息子に働きかけた。しかしリュイーヌはリシュリューの有能ぶりを警戒、リュイーヌと通じていたことで一部から疑いの目を向けられ、国王ルイはリシュリューを嫌っており、枢機卿への叙任は何となくかわされた。リュイーヌの甥とリシュリューの姪の結婚が行われたものの、叔父同士の仲は良好とは言い難かった。

この頃国外ではヴァルテリン回廊をめぐる緊迫した状況にあった。しかしルイは国内の問題に対処し、宗教戦争後の取り決めを破りラ・ロシェルに集結したユグノーに向けて軍を動かした。1621年4月、宮廷も共に移動し、まだ要職に就いていないリシュリューは王太后と共に宮廷に従った。ユグノーの指導者ローアン公とスビーズ公に対峙するルイとリュイーヌ。まずサン・ジャン・ダンジェリーを包囲し、6月に攻略して次にラ・ロシェルへ向かった。リシュリューと王太后は特別することもなく、クーセーや領地リシュリューで過ごした。リシュリューと王太后は国王の諮問会議からほぼ締め出されており、用のない王太后はこれ以上国王と共に進軍しないことにした。 ユグノーはモントーバン地域が味方に付き、サン・ジャン・ダンジェリーは再びユグノーの手に落ちた。8月にルイとリュイーヌは後退。このモントーバン戦は過酷でリュイーヌは戦果を挙げられず、ルイのリュイーヌに対する信頼は薄れて行き、やがてその頃陣営に流行っていた猩紅熱でリュイーヌは死んだ。

リュイーヌの死後、ルイはリシュリューの昇任について約束するが、コンデが宮廷に戻り、諮問会議の大臣たちはリシュリューを警戒した。そのうえヴァルテリン問題と国内ユグノーの問題を放ったまま冬を過ごした。1622年3月、春になりルイは戦争を始め、リシュリューは王太后に、宮廷と共に移動するように進言した。 1622年夏、リシュリューと王太后はナントに滞在した。この頃リシュリューは1か月ほども片頭痛に悩まされ、カルトゥジオ会の修道士からベゾアール石を手に入れたようだが効き目はなかった(あたりまえ)。この夏は片頭痛はともかく、ほかのことではリシュリューにとっては静かに過ぎ、9月5日に枢機卿昇任の知らせが届いた。宮廷は12月にリヨンに移動し、1622年12月10日にリヨン大聖堂で国王ルイがリシュリューを枢機卿に叙任した。